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石田三成【いしだ みつなり】

美術人名辞典

石田三成
安土桃山時代の武将近江坂田郡石田村生。石田正継の子、石田正澄の弟。初名は三也、通称は佐吉豊臣秀吉家臣五奉行の一人。訴訟の処理、財政運営、太閤検地などに貢献。また九州征伐小田原征伐朝鮮出兵でも、兵站輸送、占領政策の立案・実施などに才幹を発揮した。佐和山城主となり十九万四千石を領す。秀吉没後、徳川家康に対抗するが、関ケ原の戦に敗れた。慶長5年(1600)歿、40才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

いしだ‐みつなり【石田三成】
[1560~1600]安土桃山時代の武将。近江(おうみ)の人。幼名、佐吉。豊臣秀吉才知を認められて五奉行の一人となり、太閤検地など内政面に活躍。文禄4年(1595)近江佐和山城主となり19万4千石を領したが、秀吉の死後関ヶ原の戦い徳川家康に敗れ、処刑された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

石田三成 いしだ-みつなり
1560-1600 織豊時代の武将。
永禄(えいろく)3年生まれ。石田正澄の弟。羽柴(豊臣)秀吉の近侍をつとめ,のち治部少輔(じぶのしょう)。知将として秀吉の全国制覇の戦いにしたがう。軍事よりも内政や吏務にすぐれ,堺奉行をかね,太閤検地を実施して,五奉行の筆頭となる。文禄4年近江(おうみ)(滋賀県)佐和山城主。19万石。秀吉の死後,徳川家康と対立し,関ケ原の戦いに敗れて捕らえられ,慶長5年10月1日京都で斬られた。41歳。近江出身。初名は三也。通称は佐吉。
格言など】万が一も家康うろたへ上はば,尾州三州之間にて可討果儀(討ち果たすべき儀),案中(あんちゅう)に候

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

いしだみつなり【石田三成】
1560‐1600(永禄3‐慶長5)
安土桃山時代の武将。初名三也,通称佐(左)吉。近江坂田郡石田村の出身。父を正継,兄を正澄という。羽柴(豊臣)秀吉が近江長浜を領していたころ認められ15,16歳で近侍となり,側近の吏僚として働き,1585年(天正13)秀吉の関白就任に際し従五位下治部少輔に叙任,翌年堺の奉行を兼ね,やがて浅野長政,増田長盛,長束正家,前田玄以など豊臣氏直属吏僚の中でも随一の奉行と目されるようになった。87年の島津征伐では秀吉に従い博多の復興を指揮し,島井宗室・神屋宗湛ら豪商と親交を深めた。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

いしだみつなり【石田三成】
1560~1600 安土桃山時代の武将。近江おうみの人。名は佐吉。治部少輔と称する。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤たいこう検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ、京で斬首ざんしゆされた。

出典:三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

石田三成
いしだみつなり
[生]永禄3(1560).近江
[没]慶長5(1600).10.1. 京都
安土桃山時代の武将。豊臣家五奉行の一人。治部少輔。初名三也,通称佐吉,本名宗成。父は正継。近江坂田郡石田村の人。 13歳のとき豊臣秀吉に仕え,側近として厚い信任を受けた。天正 11 (1583) 年賤ヶ岳の戦いに軍功があり,同 13年秀吉が関白になると,諸大夫 12人のなかに選ばれ従五位下,治部少輔。これより特に重用され,さらに枢機に参与するようになった。同 15年の九州征伐の際には長束正家とともに兵站を受持ち,島津義久の降伏後は,博多の復興のために尽力した。同 18年の小田原征伐の際にも忍城の水攻めなどで活躍し,また文禄・慶長の役にも出陣し,軍需品輸送,占領政策にも才能を発揮した。太閤検地に際しては長束正家,浅野長政らとともにその中心的な役割を果した。所領は初め近江国水口4万石であったが,文禄4 (95) 年には同国佐和山 18万石の城主となり,さらに秀吉直轄領7万石の代官となった。秀吉の死後,徳川家康の勢力の増大をおそれ,慶長5 (1600) 年関ヶ原に家康と戦って敗れ (→関ヶ原の戦い ) ,捕われて京都六条河原において斬首された。彼は常に民政に留意,『石田三成条目』を出している。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

石田三成
いしだみつなり
(1560―1600)
安土(あづち)桃山時代の武将。幼名は佐吉、初名は三也。近江(おうみ)国坂田郡石田村(滋賀県長浜市)の出身。正継の子。豊臣(とよとみ)秀吉の長浜城主時代にその俊敏さを認められ、近侍として仕えた。中国征伐、山崎の戦いにも従い、さらに賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いに軍功を著し、1585年(天正13)秀吉が関白(かんぱく)になると、諸大夫12人のなかに選ばれて従(じゅ)五位下(げ)、治部少輔(じぶしょう)に叙任された。その後、秀吉の全国統一事業が進むなかで、股肱(ここう)の臣として枢機に参画し、太閤(たいこう)検地の実施の中心ともなった。大坂築城ののち、隣接の重要経済都市である堺(さかい)の奉行(ぶぎょう)も兼ねた。九州征伐には兵站(へいたん)のことをつかさどり、小田原征伐では関東の諸城の攻略にあたり、さらに陸奥(むつ)に進んで諸大名の所領替えなどを処理し、一揆(いっき)の鎮圧にもあたった。文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役では名護屋(なごや)本営の設営、兵站、交通路の確保・整備にあたり、また奉行として渡海した。三成は武将ではあるが、その本領はむしろ吏務に長じ、五奉行随一の実力者として政務の処理にあたった。95年(文禄4)近江佐和山(さわやま)城主となり、江北で19万石余を領した。三成が所領内の民政に留意したことは著名である。秀吉の死後、徳川家康の勢威が高まるに及んで、毛利輝元(もうりてるもと)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)らと謀って家康に対抗し、1600年(慶長5)9月美濃(みの)関ヶ原に戦ったが、小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りによって敗北、ついに捕らえられて、10月1日京都六条河原で処刑された。[橋本政宣]
『今井林太郎著『石田三成』(1961・吉川弘文館)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

いしだ‐みつなり【石田三成】
安土桃山時代の武将。近江の人。幼名佐吉。治部少輔と称する。豊臣秀吉に仕え、五奉行の一人として、特に太閤(たいこう)検地など、行政面に実績をあげ、近江佐和山城主に封ぜられる。秀吉の死後、反徳川勢の中心となるが、関ケ原の戦で敗れ、処刑された。永祿三~慶長五年(一五六〇‐一六〇〇

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旺文社日本史事典 三訂版

石田三成
いしだみつなり
1560〜1600
安土桃山時代の武将。豊臣家五奉行の一人
近江(滋賀県)の出身。幼児より豊臣秀吉に近侍,累進し治部少輔に叙任。政務に長じ,太閤検地の中心となり活躍した。文吏派大名の中心人物で,秀吉死後,徳川家康を除こうとし,関ケ原の戦いをおこしたが敗れ,京都で斬首された。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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