@niftyトップ

辞書、事典、用語解説などを検索できる無料サービスです。

石高制【こくだかせい】

大辞林 第三版

こくだかせい【石高制】
豊臣秀吉の石改めに始まり、地租改正によって廃止された、江戸時代の土地制度の原則。田畑や屋敷などの土地はすべて米の生産力に換算・表示され、そのことが百姓所持地(百姓高所持)から大名領知(石高知行制)にまで貫徹していた。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版

こくだかせい【石高制】
土地の標準収穫量である石高を基準にして組み立てられた近世封建社会の体制原理をいう。
[貫高制との相違
 戦国大名も貫高制に基づいた検地を行い,軍役基準を定めたが,土地面積に応じた年貢賦課が原則で,どれだけの収穫量があるかについては無関心であった。田畠をそれぞれ上中下に分け,それに応じて年貢額が算出される例もあるが,たとえば後北条氏の場合のように,田1反=500文,畠1反=165文と,年貢額は固定されていた。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

日本大百科全書(ニッポニカ)

石高制
こくだかせい
田畑・屋敷などの公定生産高=石高を基礎として組織された経済的・政治的制度。石高制は荘園(しょうえん)制的諸関係を克服するとともに、近世幕藩体制の基礎をなす制度である。その成立は、太閤(たいこう)検地によって石高が確定され、把握されたことに基づく。[宮川 満]

石高

室町末期までは土地の経済的意義を把握し表示するのに、荘園制的諸関係の残存としての米高(年貢高)や貫高(かんだか)、蒔高(まきだか)、刈高(かりだか)などが用いられていたが、豊臣(とよとみ)秀吉はこれらを廃して、1582年(天正10)から始めた検地により確定した石高をもって、土地関係を整理し把握する基礎とした。この石高は、それまでの年貢高としての米高ではなく、検地の実施に際し、坪刈(つぼがり)やその他の条件に基づいて求めた標準平均生産高から算定される石盛(こくもり)を、田畑・屋敷の上・中・下の等級に応じて決定し、その石盛を基準にして一筆ごとに確定されたものである。この石盛の決定には、坪刈のほか、付近の商業・交通・手工業・特産物の情況など、総じてその地域の社会的富の大小や、政治的・軍事的に重要か否か、などの経済的・政治的判断が加えられることも多かった。したがって、このような性格の石盛を基礎として確定される石高は、現実の生産高とはいえず、むしろ公定の生産高であるといえよう。なかには、石高は上から恣意(しい)的に決定されたものとする見解や、見積り(見込み)生産高とする説もあるが、いずれも的確ではない。やはり、石高は、前述のように坪刈による見積り生産高に社会的富の大小を考え合わせ、かつ政治的判断を加えた、公定の生産高とみるのが適切である。なお、石高と現実の生産高とは食い違う場合も多く、その食い違いは年代の下るほど多くなる傾向にあった。しかし、それでも石高は次の検地まで変更されることがなかった。このような性格の石高を基礎にして組織された政治的・経済的な土地関係が石高制である。[宮川 満]

石高制の意義

秀吉が従来の米高や貫高などを廃して、公定生産高としての石高を採用し、石高制の成立に努めた理由は、すでに以前から本領を遠く離れて出仕する武士の多くが、土地よりも、むしろ蔵米(くらまい)を支給される傾向にあったからともいわれている。しかし、これは皮相な取るに足らない見解である。それよりも、より根本的な理由がほかにあった。それは、農民層の田畑・屋敷のもつ経済的意義を把握し、表示するには、従来の米高、貫高、蒔高などが間接的であり、やや大ざっぱなのに比べて、石高制のほうがより直接的、より適切だった点である。そのため、間接的で大ざっぱな米高制、貫高制などの場合には、土豪や有力農民による中間搾取を抑えがたいが、直接的で適切な石高制の場合は、それを抑えやすく、かつ一地に1名請人(なうけにん)とする検地方針と相まって、兵農を分離することが可能であった。すなわち、石高制では、検地によって確定された石高のうち、作徳分(さくとくぶん)は名請人がとり、残りはすべて領主が収取したから、土豪や有力農民の中間搾取はむずかしくなり、彼らは武士化・領主化が不可能になって、農民として在村し続けた。こうして農民の武士化の傾向や下剋上(げこくじょう)の傾向もなくなり、兵農が分離して天下の平静が招来したのである。石高制が、このように兵農分離を貫徹させる基礎として果たした役割はきわめて大きい。
 石高制は、また封建的支配関係の基準ないし基礎をなすもので、その関係を支え規制する機能を有していた。まず支配される農民すなわち領民の側からみると、彼らにとって石高は、領主へ貢納する年貢・課役の決定基準であり、石高の増加は負担の増加を意味する。したがって彼らは、保有する石高をそのままにしておいて、農業技術の改良や隠田(おんでん)その他により、実質的な現実の生産高の増加を図った。そのため、石高と現実の生産高のずれが、年代の下るほど増加したのである。次に支配する領主の側からみると、彼らにとって領民の保有する石高は、年貢・課役の徴収基準であり、領民支配の基礎であったから、すこしでもその増加を図った。領内で実際に年貢賦課の対象となる石高は、領民の保有する石高の合計であり、内高(うちだか)とよばれた。これは、幕府から与えられた表面上の石高である表高(おもてだか)に対する語である。各領主は新田開発、検地による打出(うちだし)、隠田の摘発、農業技術の改良などにより、内高の増加に努めたから、内高は表高を上回ることも多く、年代の下るほどその傾向が強まった。内高の増加は、領主の収入増加を意味するが、反面、領民の収入減となる場合もあった。
 石高制は、さらに幕藩体制下の武士や農民の身分を規定し、家格を決める一因としての機能を有していた。すなわち、本百姓(ほんびゃくしょう)、無高(むだか)、水呑(みずのみ)などの身分は、農民の保有する石高の多少・有無によって規定された。また武士たちは、1万石以上を大名、1万石未満を旗本とするように、大名から軽輩の足軽に至るまで、それぞれ給付された所領の表高の大小によって格づけされ、家格が決められた。同時にその表高は彼らにとって、軍役その他の負担基準であった。
 以上のように、石高制は兵農分離の基礎として、あるいは封建的支配関係や身分関係の基準として、それらを規制したのであり、その意義は大きい。こうして石高制は太閤検地以降、幕藩体制の基礎としての機能を果たしつつ、1873年(明治6)の地租改正まで存続したのである。[宮川 満]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

石高制」の用語解説はコトバンクが提供しています。

石高制の関連情報

他サービスで検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.

アット・ニフティトップページへ アット・ニフティ会員に登録

ウェブサイトの利用について | 個人情報保護ポリシー
©NIFTY Corporation