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神仏習合【しんぶつしゅうごう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

神仏習合
しんぶつしゅうごう
外来の仏教信仰と固有の神祇信仰とを融合調和すること。神仏混交ともいう。最初,教が主,神道であり,奈良時代には多気大神宮寺などの神宮寺建立として現れ,平安時代には神前で読経したり,神に菩薩号をつけるなどの例が多くなり,また本地である仏,菩薩が日本でかりに神の姿となったとし,阿弥陀如来の垂迹 (すいじゃく) が八幡神,大日如来の垂迹が伊勢大神であると説く本地垂迹説が起こった。鎌倉時代にはその理論化としての両部神道が生まれたが,一方神道側から,神道を主,仏教を従とする反本地垂迹説が出された。江戸時代には,国学隆盛とともに,仏教的要素を神道から除き,神道の優位を説く思想が盛んとなり,明治1 (1868) 年には神仏判然令 (神仏分離令) が出されるにいたった。

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デジタル大辞泉

しんぶつ‐しゅうごう〔‐シフガフ〕【神仏習合】
日本固有の神の信仰外来の仏教信仰とを融合・調和するために唱えられた教説。奈良時代、神社に付属して神宮寺が建てられ、平安時代以降、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)やそのの反本地垂迹説などが起こり、明治政府の神仏分離政策まで人々の間に広く浸透した。神仏混淆

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防府市歴史用語集

神仏習合
 日本にもともとある神の信仰(神道[しんとう])と仏教の信仰が1つになった宗教の考えを言います。奈良時代にははじまっていました。天満宮(神道)の土地(仏教)があったのも、その1例です。

出典:ほうふWeb歴史館
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世界大百科事典 第2版

しんぶつしゅうごう【神仏習合】
日本の伝統的な神祇信仰と大陸伝来の仏教が接触混淆した結果,生み出された宗教現象。最も古くは宇佐八幡宮朝鮮の土俗的な仏教の影響を受け,巫僧集団を形成し,6世紀終りころすでに神宮寺をつくった。8世紀になって気比神宮,若狭比古神社,多度神社などに神宮寺ができたが,東大寺大仏造立にあたり,伊勢神宮祈願がこめられ,仏法帰依の神託を得,八幡神も大仏造立援助のため上京して東大寺鎮守となった。こうした朝廷の積極的な習合政策と地方民間修行僧の布教活動によって神前読経・神宮寺建立は全国的に広がった。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

神仏習合
しんぶつしゅうごう

神道(しんとう)信仰と仏教信仰とを融合調和すること。習合とは、本来相異なる教義・教理を結合また折衷することであり、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説がそれにあたる。よって、厳密な意味での日本における神仏習合は、10世紀初期よりのち1868年(明治1)までに存したものであり、それ以前は単に神仏調和とでもいうべきであろう。

 日本への仏教伝来以降、聖徳太子の積極的な仏教奨励策、また仏教そのものの同化性のあったことも影響して、白鳳(はくほう)時代ころより神前で読経(どきょう)・写経などが行われ、天平(てんぴょう)時代より日本の神は仏道に帰依(きえ)し、福業を修行しようと欲しているものとみて、そのための場として、神社に付属して神宮寺を建立したことなどは、神仏調和というべきことである。神仏習合、本地垂迹説の成立時期について、『説法明眼論抄』には聖徳太子によってと記し、『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』では行基(ぎょうき)よりと説き、『東大寺要録』『東大寺縁起』などでは空海(くうかい)また最澄(さいちょう)らよりと説くが、いずれも否定されるべきものである。その当時にすでにそのような思想、信仰が存したとのような証拠はない。

 その本地垂迹説とは、本地すなわちインドにおける絶対的な仏陀(ぶっだ)が、人間を利益(りやく)し、衆生(しゅじょう)を済度(さいど)せんがために、日本では神となって迹(あと)を垂れるという説で、日本の神祇(じんぎ)は、もとを尋ねるとみな仏であり、仏も神もみな、もとは一つであるとの説であり、中国ではその古代信仰と仏教との習合は、隋唐(ずいとう)以前六朝(りくちょう)時代よりあったとされるが、日本でその基礎となるような神観、仏観が生じ、本地垂迹説が生じたのは、10世紀に入ってからのことである。『三代実録』のなかに「垂迹」の語はみられるが、ここでいう意味とは別の意であり、本地垂迹説としての実質的なその語の初見は、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)所蔵文書中の承平(じょうへい)7年(937)10月4日付けの大宰府牒(だざいふのちょう)のなかでである。すなわち、そこで筥崎(はこざき)宮・宇佐(うさ)宮の祭神に関連して「権現菩薩(ごんげんぼさつ)垂迹」と記されているのがそれである。これよりして、およそそのころ本格的な神仏習合思想が生じたものとみられる。それがだれによって、いつ唱えられたか正確にはわからないが、その教団、教義より推して、仏教者側から唱えられたことは確かであろう。また、その当時においてそれはなお漠然としたものであり、どの神がどの仏の垂迹とのような段階はもう少し後のものとみられる。

 それより前、『延喜式(えんぎしき)』神名帳常陸(ひたち)国(茨城県)のなかに、大洗磯前(おおあらいいそさき)薬師菩薩神社、酒列(さかつら)磯前薬師菩薩神社、筑前(ちくぜん)国(福岡県)に八幡大菩薩筥崎宮、豊前(ぶぜん)国(大分県)に八幡大菩薩宇佐宮とのように菩薩号の4社がみられる。この菩薩が仏教で唱える意味どおりに使用されたのかどうかに疑問はあるが、このような名が神につけられ、神社名とされることがあり、このようなことからしだいに本地垂迹説が生じてきたものとみられる。寛弘(かんこう)(1004~1012)ころには熊野権現、熱田(あつた)権現などの名もみえるようになり、『長秋記(ちょうしゅうき)』長承(ちょうしょう)3年(1134)の条に、熊野本宮の家津王子(けつみこ)の本地は阿弥陀仏(あみだぶつ)、結宮(むすびのみや)(牟須美(むすびの)神)の本地は千手観音(せんじゅかんのん)、早玉(はやたま)明神の本地は薬師如来(にょらい)と記すように、一般にその本地がはっきりと示されるようになる。以降、1868年、王政復古の実現とともに、復古神道(ふっこしんとう)を基礎理念とした明治維新政府が発令したいわゆる神仏判然令(神仏分離令)によって神仏が分離されるまで、神仏習合した信仰や思想は、国民の間に広く浸透していたのである。

[鎌田純一]

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精選版 日本国語大辞典

しんぶつ‐しゅうごう ‥シフガフ【神仏習合】
〘名〙 =しんぶつこんこう(神仏混淆)〔現代文化百科事典(1937)〕
※閨秀(1972)〈秦恒平〉二「神社は由緒のわりに複雑な神仏習合の来歴をもち」

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旺文社日本史事典 三訂版

神仏習合
しんぶつしゅうごう
神と仏は同じものであるとして,神道と仏教を調和させようとする説
神仏混淆 (こんこう) ともいう。仏教は元来インドでおこったものであるが,日本に伝えられると神道と融合した。奈良時代に神社に神宮寺がつくられ,平安時代になると個々の神をそれぞれ仏と結びつける本地垂迹説が現れ,神社に仏像を置いたり,寺に鳥居をたてたりした。神仏習合は約1000年間行われてきたが,明治初期の神仏分離令によって否定された。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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