●福井藩【ふくいはん】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
福井藩
ふくいはん
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福井藩
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藩名・旧国名がわかる事典
ふくいはん【福井藩】
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世界大百科事典 第2版
ふくいはん【福井藩】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
福井藩
ふくいはん
越前(えちぜん)国福井(福井市)地方を領有した藩。親藩。越前藩、北庄(きたのしょう)藩ともいう。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いののち、徳川家康の次男結城秀康(ゆうきひでやす)が68万石を賜って成立。その後忠直(ただなお)、忠昌(ただまさ)(50万5000石)、光通(みつみち)(42万石)、昌親(まさちか)(47万5000石)、綱昌(つなまさ)、吉品(よしのり)(昌親再封、25万石)、吉邦(よしくに)、宗昌(むねまさ)(30万石)、宗矩(むねのり)、重昌(しげまさ)、重富(しげとみ)、治好(はるよし)(32万石)、斉承(なりつぐ)、斉善(なりさわ)、慶永(よしなが)(春嶽(しゅんがく))、茂昭(もちあき)と続いて明治維新に至る。姓は秀康に諸説あるが、忠直以降松平(まつだいら)を称し、名も将軍の偏諱(へんき)を賜った。秀康・忠直父子は優れた武将で、秀康は藩政の基礎を固め、忠直も祖父が「日本の樊噌(はんかい)」とその功を賞したほどであったが、秀康の弟徳川秀忠(ひでただ)が将軍になったこともあってか、ともに奇矯のふるまいが目だち、忠直は1623年(元和9)豊後(ぶんご)国(大分県)に配流された。家光の将軍就任に先だち、2代にわたる不遜(ふそん)を責め禍根を断ったものとみられる。ただし「酒色に耽(ふけ)り無辜(むこ)を殺戮(さつりく)」したと伝えられる忠直の乱行なるものは、多く潤色であり、そのまま史実とは認められず、鳥羽野(とばの)開拓などみるべき治績も多い。重富の代1768年(明和5)には、2万人が参加したとされる有名な城下打毀(うちこわし)が起こった。1838年(天保9)襲封した慶永は、橋本左内(さない)、横井小楠(しょうなん)(熊本藩)、中根雪江(せっこう)などのブレーンに恵まれて藩政改革に成功した。さらに幕政でも一橋(ひとつばし)派として井伊大老と対立し、敗れて「隠居急度慎(いんきょきっとつつしみ)」とされたが、1862年(文久2)政事総裁職として復帰し、公武合体路線を主張して活躍した。産業は、早くから越前奉書の名をもつ五箇(ごか)の和紙が盛んで、藩の専売品となっていた。また絹織物は幕末期下級武士の内職として行われた。藩校は正義堂、さらに明道館と称した。1871年(明治4)廃藩、福井、足羽(あすわ)、敦賀(つるが)、石川県を経て、81年再置の福井県に入る。
[隼田嘉彦]
『『福井県史 2』(1921・福井県)』▽『『福井県史(新編) 資料編 3・4』(1982、84・福井県)』
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