●秋田城【あきたじょう】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
秋田城
あきたじょう
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朝日新聞掲載「キーワード」
秋田城
(2006-11-01 朝日新聞 朝刊 秋田全県 2地方)
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デジタル大辞泉
あきた‐じょう〔‐ジヤウ〕【秋田城】
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世界大百科事典 第2版
あきたじょう【秋田城】
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日本の城がわかる事典
あきたじょう【秋田城】
出典:講談社
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日本大百科全書(ニッポニカ)
秋田城
あきたじょう
秋田市寺内(てらうち)高清水(たかしみず)丘陵にあった、奈良・平安時代の城柵(じょうさく)。遺跡は1939年(昭和14)国の史跡に指定。733年(天平5)庄内(しょうない)平野から北進した出羽柵(いではのき)の後身で、出羽(でわ)国北部における政治、軍事の拠点。古代に秋田河といった雄物(おもの)川の河口部北岸にあたり、海路、内水路交通の便がある。遺跡の秋田城跡からは、天平(てんぴょう)6年(734)10月の紀年銘のある木簡(もっかん)も出土している。城名の初見は、『正倉院文書』では760年(天平宝字4)3月の「丸部足人解(わにべのたるひとのげ)」に「阿支太(あきた)城米」とあるもので、『続日本紀(しょくにほんぎ)』では780年(宝亀11)である。『日本後紀』延暦(えんりゃく)23年(804)11月条に「秋田城建置以来四十余年」とあり、天平宝字(ほうじ)年間(757~765)に秋田出羽柵が整備増強され城になったことが知られる。759年(天平宝字3)陸奥出羽按察使(むつでわあぜち)藤原恵美朝猟(えみのあさかり)が出羽雄勝(おかち)城と陸奥桃生(ものう)城を築営する際、一連の建設をしたものと推定できる。築城当時は出羽国府があったが、775年(宝亀6)政情不穏になり、国府は庄内に後退した。780年秋田城放棄論さえ出たが、鎮狄(ちんてき)将軍安倍家麻呂(あべのいえまろ)の判断により存続。878年(元慶2)の俘囚(ふしゅう)の乱では城内官舎、城櫓が多数破壊されたが、ただちに復興。秋田城介(あきたじょうのすけ)制のもと長く維持された。
[新野直吉]
『新野直吉著『古代史上の秋田』(1981・秋田魁新報社)』
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精選版 日本国語大辞典
あきた‐じょう ‥ジャウ【秋田城】
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旺文社日本史事典 三訂版
秋田城
あきたじょう
奈良時代から平安時代にかけて存続し,陸奥鎮守府と並び,朝廷の東北経営の拠点とされた。現在の秋田市雄物川河口にあり,城の規模は東西1.3㎞,南北1㎞。停廃の時期は不明。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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