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穴穂部皇子【あなほべのおうじ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

穴穂部皇子
あなほべのおうじ
[生]?
[没]用明2(587).6.7. 大和
欽明天皇の皇子。用明天皇没後,物部守屋と結び皇位を望んだが,推古天皇を奉じた蘇我馬子らに殺された。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

穴穂部皇子 あなほべのおうじ
?-587 6世紀後半,欽明(きんめい)天皇の皇子。
母は蘇我稲目(そがの-いなめ)の娘小姉君(おあねのきみ)。用天皇の没後,物部守屋(もののべの-もりや)の後押しで天皇になろうとしたが,用明天皇2年6月7日蘇我馬子(うまこ)らに殺された。別名は埿部(はしひとの)穴穂部皇子,三枝部(さきぐさべの)穴太部王,天香子(あまつかこの)皇子,住迹(すみとの)皇子。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

あなほべのみこ【穴穂部皇子】
?‐587
欽明天皇の皇子で,母は欽明妃で大臣蘇我稲目の女小姉君(おあねのきみ)。敏達天皇の没後大連(おおむらじ)の物部守屋と結んで天下をとろうとし,これに反対する敏達の寵臣三輪逆(みわのさかう)を殺した。用明天皇の没後,のちの推古天皇,蘇我馬子らに攻撃され,587年6月に殺され,守屋もまた7月に滅ぼされた。皇子は皇位継承問題で蘇我氏と対立し,蘇我対物部の政争の犠牲となった。【原島 礼二】

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

穴穂部皇子
あなほべのおうじ
(?―587)
欽明(きんめい)天皇の皇子。母は蘇我稲目(そがのいなめ)の女(むすめ)小姉君。(はしひとべ)穴穂部皇子ともいう。585年敏達(びだつ)天皇崩御のとき、無理に天皇になろうとしたが、蘇我馬子(うまこ)に諫(いさ)められ果たさなかった。587年用明(ようめい)天皇崩御ののち、ふたたび物部守屋(もののべのもりや)と結んで天皇になろうとして、泊瀬部(はつせべ)皇子(崇峻(すしゅん)天皇)を推す馬子らと争ったが、佐伯連丹経手(さえきのむらじにふて)、土師連磐村(はじのむらじいわむら)、的臣真噛(いくはのおみまくい)ら馬子方の将に襲撃されて死に、のち守屋も殺された。[横田健一]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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旺文社日本史事典 三訂版

穴穂部皇子
あなほべのおうじ
?〜587
欽明天皇の皇子
敏達 (びたつ) ・用明両天皇没後,2度にわたって皇位を望んだが,実現できなかった。2回目には物部守屋と結び,崇峻天皇擁立を策した蘇我馬子と争ったが,敗退し殺された。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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