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立憲民政党【りっけんみんせいとう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

立憲民政党
りっけんみんせいとう
日本の政党立憲政友会と並ぶ昭和初期の大政党。憲政会と,立憲政友会から分裂した政友本党とが合同して 1927年6月1日結党した。総裁浜口雄幸,顧問に若槻礼次郎床次竹二郎武富時敏山本達雄らが就任し,綱領に (1) 天皇治下の議会中心政治,(2) 社会不安の一掃,(3) 国際正義,(4) 時代錯誤の陋習打破などを掲げた。立憲民政党結成と同時に議員数 219名を擁する第1党となったが翌 28年2月 20日の第1回普通選挙では 216議席,1議席差ではあるが政友会に敗れ,第2党となり政友会の田中内閣を倒すにいたらなかった。しかし同年6月4日関東軍の謀略で起された張作霖爆死事件は田中内閣総辞職の引き金となり,翌年1月 25日の議会における中野正剛の質問に始った民政党の攻撃の前に同7月2日田中内閣は総辞職。同日民政党による浜口内閣が実現した。同内閣は大蔵大臣に井上準之助をおき,30年 11月金解禁を断行し,また外務大臣に幣原喜重郎を据え,ロンドン軍縮会議では,軍部,政友会の強い反対を押切って条約締結に成功したが,31年4月浜口がテロに倒れてのち首相代理幣原の不手ぎわも加わり同 13日総辞職に追込まれた。翌日成立した第2次若槻内閣もまた,満州事変不拡大方針が敗れ,内相安達謙蔵が民・政両党提携を唱え,若槻の辞職勧告を拒否した閣内不統一もあって同 12月 11日総辞職,政権を犬養政友会内閣に譲った。犬養内閣も五・一五事件で倒れ,ここに政党内閣の時代は終り,さらに二・二六事件以後,民政党は 40年斎藤隆夫を反軍演説の理由で除名し,軍部の圧力に屈し,同年7月永井柳太郎ら 40名の脱党を機に,同8月 15日解党近衛文麿の新体制協議会に吸収された。

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デジタル大辞泉

りっけん‐みんせいとう〔‐ミンセイタウ〕【立憲民政党】
昭和2年(1927)憲政会政友本党とが合同し、浜口雄幸を総裁に結成された政党。立憲政友会とともに政党内閣期を担った。同15年、新体制運動に吸収され解党。民政党。

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世界大百科事典 第2版

りっけんみんせいとう【立憲民政党】

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

りっけんみんせいとう【立憲民政党】
政友会に対抗し、昭和初期の議会を二分した政党。1927年(昭和2)6月、憲政会と政友本党が合同して成立。29年、総裁浜口雄幸が首相となり、外交・軍事両面にわたり穏健政策を進めたが反対党・軍部・右翼の批判・攻撃をうけ、ついにその指導力を貫徹させるには至らなかった。40年解党。民政党。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

立憲民政党
りっけんみんせいとう
立憲政友会と並ぶ昭和前期の二大政党の一つ。1927年(昭和2)6月1日、憲政会と政友本党の合同により結成。総裁浜口雄幸(はまぐちおさち)、顧問若槻礼次郎(わかつきれいじろう)、床次竹二郎(とこなみたけじろう)。政綱に「議会中心政治の徹底」、「各種社会政策を実行」することを掲げた。28年2月の第1回普通選挙で与党政友会の217名に対して216名を当選させ勢力伯仲したが、8~9月床次派ら35名が脱党。29年7月田中義一(ぎいち)内閣の後を受けて浜口雄幸内閣を実現、緊縮財政と協調外交を二大方針に掲げ、産業合理化、金解禁を推し進めるとともに軍備縮小を図った。30年2月の総選挙では273名の絶対多数を得、ロンドン軍縮会議では軍部を抑えて条約締結に成功し、政党内閣の実質を示した。しかし軍縮条約にからむ統帥権干犯(とうすいけんかんばん)問題で浜口首相が右翼に狙撃(そげき)され、31年4月、総裁・内閣は若槻にかわった。この前後から大恐慌の影響で内政、外交とも行き詰まり、満州事変勃発(ぼっぱつ)後の12月安達謙蔵(あだちけんぞう)らの協力内閣運動によって若槻内閣は崩壊した。犬養毅(いぬかいつよし)政友会内閣下での32年2月の総選挙では146名に激減した。五・一五事件で政党内閣期に終止符が打たれると斎藤実(まこと)・岡田啓介(けいすけ)の両内閣には準与党的立場をとり、33年10月からの政友会との連携運動(政民連携運動)には一時熱意を示したが、倒閣には消極的であった。34年11月若槻総裁が辞任、翌年1月町田忠治(ちゅうじ)が総裁となり、36年2月、37年4月の総選挙ではそれぞれ205名、179名を当選させ第一党となったが、36年の二・二六事件後は軍部の圧力に屈し、40年の民政党議員斎藤隆夫(たかお)の反軍演説問題では斎藤を除名処分とした。同年近衛文麿(このえふみまろ)の新体制運動が起こり、7月永井柳太郎(りゅうたろう)ら新体制積極派の脱党を機に、近衛新体制に同調し、8月15日に解党した。[由井正臣]
『加藤政之輔監修『立憲民政党史』上下(1935・立憲民政党史編纂局/復刻版・1973・原書房) ▽白木正之著『日本政党史 昭和篇』(1949・中央公論社) ▽升味準之輔著『日本政党史論 第5、6巻』(1979、80・東京大学出版会) ▽粟屋憲太郎著『昭和の歴史 6 昭和の政党』(1983・小学館)』

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精選版 日本国語大辞典

りっけん‐みんせいとう ‥ミンセイタウ【立憲民政党】
昭和初期の政党。昭和二年(一九二七)立憲同志会の後身憲政会と政友本党が合同し憲本連盟を結成。同年それを改組して結党。浜口雄幸・若槻礼次郎・床次竹二郎らを中心とし天皇統治下の議会政治の徹底、社会不安の除去、国際正義などを主張。張作霖事件で中野正剛、永井柳太郎らが田中内閣を攻撃、浜口内閣組閣に導きロンドン軍縮会議で条約を締結したが、ファシズム勢力に反撃された。同一五年には斎藤隆夫を反軍演説問題で除名。近衛文麿の新体制運動に接近し、同年解党。民政党。

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旺文社日本史事典 三訂版

立憲民政党
りっけんみんせいとう
昭和初期の二大政党の一つ(1927〜40)
1927年6月,田中義一政友会内閣に対抗し憲政会と政友本党が合同して結成。総裁は浜口雄幸。その後浜口・第2次若槻礼次郎両内閣を実現し,協調外交緊縮財政など都市ブルジョア的性格の政策を実施した。金解禁以後党勢は衰え,斎藤実 (まこと) ・岡田啓介両内閣の準与党となったが軍部に屈伏。'40年8月解党し,大政翼賛会に合流した。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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