●竹内式部【たけのうちしきぶ】
美術人名辞典
デジタル大辞泉
たけのうち‐しきぶ【竹内式部】
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus
竹内式部 たけのうち-しきぶ
正徳(しょうとく)2年生まれ。京都で儒学,垂加(すいか)神道をまなび塾をひらく。尊王論を主張し,門下の公卿(くぎょう)が桃園天皇に「日本書紀」神代巻を進講したことから,宝暦9年重追放となった(宝暦事件)。また明和事件に連座して八丈島に流される途中,明和4年12月5日三宅(みやけ)島で病没した。56歳。越後(えちご)(新潟県)出身。名は敬持。号は羞斎(しゅうさい),周斎,正庵。著作に「奉公心得書」など。
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世界大百科事典 第2版
たけのうちしきぶ【竹内式部】
江戸中期の国学者,神道家。越後の人。名は敬持,号は正庵。式部は通称。垂加神道を学んで公卿に神書・儒書を講じていたが,式部に教えを受けた公卿が神書(日本書紀)を,桃園天皇に進講したので,関白近衛内前らは式部の追放をはかり,所司代に告訴し,1759年(宝暦9)式部は重追放となった(宝暦事件)。公卿間の対立が原因であろう。式部は67年(明和4)の明和事件のとき,関係はないとされながら,禁を犯して京都に立ち入ったとの理由で遠島となった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
竹内式部
たけのうちしきぶ
[没]明和4(1767).12.5. 三宅島
江戸時代中期の国学者,神道家。名は敬持。号は羞庵,周斎など。京都に出て徳大寺家に仕えて垂加神道を学んだ。のち家塾を開き,正親町三条公積,烏丸光胤,久我 (こが) 敏通,徳大寺公城らに神典,儒書を講じた。宝暦事件で京都所司代の審理を受け,宝暦9 (1759) 年重追放に処され伊勢に閑居。のち山県大弐の明和事件に連座して八丈島流罪となり,護送の途中病死。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
竹内式部
たけのうちしきぶ
(1712―1767)
江戸中期の儒者、神道(しんとう)家。名は敬持、通称は式部。号は羞斎(しゅうさい)(羞庵は誤伝)、のち正庵(父祖代々の名)または周斎。正徳(しょうとく)2年越後(えちご)国新潟に竹内宗詮の子に生まれる。生家は代々の町医者。1728、1729年(享保13、14)ごろ上洛(じょうらく)し、徳大寺家に仕え、儒学を松岡仲良(まつおかちゅうりょう)(1701―1783)、沢田一斎(さわだいっさい)(1701―1782)に学び、のち玉木葦斎(たまきいさい)(1671―1736)について垂加(すいか)神道を学び、さらに若林強斎(わかばやしきょうさい)の最晩年の弟子となった。京都に開いた塾の門下には旧主徳大寺公城(とくだいじきみき)(1729―1782)、久我敏通(こがとしみち)(1735―1756)をはじめ700~800人の堂上(とうしょう)・地下(じげ)がおり、式部の説く儒書、神書の講義は現状に不満な少壮公卿(くぎょう)に大きな影響を及ぼした。とくに式部の『日本書紀』神代巻の講義の主張が近習(きんじゅ)の公卿を通じて若い桃園(ももぞの)天皇に進講されると、これを案じた前関白一条道香(いちじょうみちか)(1722―1769)は1758年(宝暦8)公家(くげ)らを処罰(宝暦(ほうれき)事件)する一方で、所司代松平輝高(1725―1781)に事態を伝えて、翌1759年5月、式部を追放に処せしめた。ついで1767年(明和4)明和(めいわ)事件が起こると、竹内式部はこれに関係なしとされながらも遠島に処せられ、八丈(はちじょう)島へ流される途次、同年12月5日三宅(みやけ)島で病死した。
[山田忠雄 2016年6月20日]
『星野恒著『竹内式部君事蹟考』(1899・冨山房/『越佐叢書6』所収・1934・同叢書刊行会/1974・野島出版)』▽『徳富猪一郎著『近世日本国民史22 宝暦明和篇』(1926・民友社)』▽『藤田福太郎著『竹内式部先生』(1936・新潟市教育会)』
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精選版 日本国語大辞典
たけのうち‐しきぶ【竹内式部】
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旺文社日本史事典 三訂版
竹内式部
たけのうちしきぶ
江戸中期の国学者・尊王論者
越後(新潟県)の人。垂加神道を学び,また軍学を研究。京都で家塾を開き,公家に大義名分を講義したが,1759年幕府から兵法を教えたことを理由に京都から追放された(宝暦事件)。'67年山県大弐の明和事件に連坐,捕らえられて八丈島に流される途中,三宅島で病死した。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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