●筑豊炭田【ちくほうたんでん】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
筑豊炭田
ちくほうたんでん
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デジタル大辞泉
ちくほう‐たんでん【筑豊炭田】
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防府市歴史用語集
筑豊炭田
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世界大百科事典 第2版
ちくほうたんでん【筑豊炭田】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
筑豊炭田
ちくほうたんでん
福岡県北部、遠賀川(おんが)流域にある全国有数の炭田。田川(たがわ)、嘉麻(かま)、飯塚(いいづか)、直方(のおがた)、中間(なかま)の5市を中心に面積約800平方キロメートル。夾炭層(きょうたんそう)は古第三紀層の芦屋(あしや)、大辻(おおつじ)、直方の三層群で、最下位の直方層群を主要夾炭層とし、おもに弱粘結性の瀝青炭(れきせいたん)を産し、埋蔵量は約25億トン。日本ではもっとも開発の歴史が古く、15世紀末には地元農家の家庭用として採炭が始まり、享保(きょうほう)年間(1716~1736)に製塩用に利用されるようになったが、明治10年代より本格的な開発が始められ、八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)の創業が発展を加速させた。明治末期には全国出炭量の過半を占め、1940年(昭和15)には史上最高2077万トンの出炭量を記録、北九州工業地帯の重要な立地条件となり、日本産業全体の発展にも大きな役割を果たした。第二次世界大戦後、1957年(昭和32)に出炭量は1500万トンまで回復したが、1960年代に入り石炭産業の合理化政策の推進によって衰退を始め、最盛期には300近くあった炭鉱も、筑豊最大の三井田川炭鉱(みついたがわたんこう)をはじめ、三菱(みつびし)飯塚、日鉄二瀬(ふたせ)、麻生(あそう)、貝島など多数の炭鉱が次々に閉山、1983年には稼行中の炭鉱はほぼ皆無となり、筑豊炭田の灯は消えた。その結果、筑豊地域は壊滅的な打撃を受けて、多数の失業者の出現、鉱害の発生などにより人口は激減した。地域振興のために産炭地域振興臨時措置法(1961)などによって企業誘致が進んだが、小規模なものが多く、十分な成果があがっているとはいいがたい。現在北部を中心に大規模工業団地が造成され、1992年(平成4)に宮田(みやた)町(現、宮若市)でトヨタ自動車九州が操業を開始するなど、北九州工業地帯に続く工業地帯としての発展が期待されている。
[石黒正紀]
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精選版 日本国語大辞典
ちくほう‐たんでん【筑豊炭田】
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