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築地小劇場【つきじしょうげきじょう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

築地小劇場
つきじしょうげきじょう
(1) 劇場名 日本に初めて建てられた新劇専門の小劇場。土方与志 (ひじかたよし) が東京中央区築地2丁目に 1924年私財を投じて建設。定員 497名。クッペルホリゾントや照明設備など当時最新の機構が取入れられ,以後新劇運動拠点として大きな役割を果した。 41年 11月に国民新劇場と改称,45年空襲焼失。 (2) 劇団名 小劇場建設とともに,小山内薫土方与志をはじめ,汐見洋,友田恭助和田精,浅利鶴雄ら同人が創立。 24年6月ゲーリング『海戦』,チェーホフ『白鳥の歌』,マゾー『休みの日』で開幕。以後,演劇実験室を標榜して,欧米の新しい翻訳劇を主として各国各時代のさまざまな傾向の演劇を紹介,上演。また,在新劇の第一線に活躍する俳優の多くを育てた。 28年 12月小山内薫の急逝によって内部に動揺をきたし,翌3月解散新築地劇団劇団築地小劇場分裂した。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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朝日新聞掲載「キーワード」

築地小劇場
小山内薫、土方与志らが1924(大正13)年に、現在の東京都中央区築地に開いた日本初の新劇の常設劇場(約500席)。千田是也山本安英滝沢修、杉村春子ら、戦後の演劇界を支えた人々が巣立った。小山内急死をきっかけに、劇場は29年に分裂。建物は45年に空襲で焼失した。
(2007-01-18 朝日新聞 朝刊 朝刊文化)

出典:朝日新聞掲載「キーワード」

デジタル大辞泉

つきじ‐しょうげきじょう〔つきヂセウゲキヂヤウ〕【築地小劇場】
大正13年(1924)土方与志(ひじかたよし)小山内薫らが東京築地に創設した、日本最初の新劇専門劇場およびその劇団。翻訳劇・創作劇を実験的に上演した。劇団は昭和5年(1930)解散。劇場は昭和20年(1945)戦災で焼失。

出典:小学館
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世界大百科事典 第2版

つきじしょうげきじょう【築地小劇場】
(1)劇場名。1924年(大正13)6月,東京市京橋区(現,中央区)築地2丁目に新築開場した日本で最初の新劇の専門劇場。関東大震災後ヨーロッパから帰国した土方(ひじかた)与志が私財を投じ,客席400余のゴシック・ロマネスク様式1階建ての小劇場を建設した。上部がドーム状に湾曲したクッペル・ホリゾントを完備し,多形式の演劇に対応できる可動舞台をもち,フットライトを廃しスポットライト,サスペンションライトを多く用い,プロンプターボックスを設けるなど,ヨーロッパの小劇場の先進的な舞台設備を採用して舞台工学の前進に貢献した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

築地小劇場
つきじしょうげきじょう

劇場および劇団名。1924年(大正13)6月に設立。ゴシック・ロマネスク様式を採用した定員468の急造バラックの小劇場は、現在の東京都中央区築地二丁目の東日本電信電話(株)のある所にあった。クッペル・ホリゾントをもつ舞台設備は、当時としては近代リアリズム戯曲を上演するのに最適の空間で、建築資金は伯爵土方与志(ひじかたよし)が提供した。新劇史上初の新劇常設劇場で、小劇場形式をとったのは、各国の近代演劇運動がすべてそうだったことによるが、当時盛んだった大劇場主義か小劇場主義かという議論に、一つの答えを示したものともいえる。おりから新劇は凋落(ちょうらく)期で、築地小劇場の創立は、ふたたび知識人を新劇に吸収する役目をしたが、一方では、同人として参加した土方の師小山内薫(おさないかおる)が当面翻訳劇しか上演しないといったことから、『演劇新潮』という雑誌に拠(よ)っていた多くの文学者が反築地の姿勢をとり、両者の反目は劇団解散時まで続いた。

 創立時の同人は小山内、土方のほかに、俳優の友田恭助(きょうすけ)、汐見(しおみ)洋、効果・照明担当の和田精、経営の浅利鶴雄の6人で、演技部に東屋(あずまや)三郎、青山杉作、研究生として千田是也(これや)、丸山定夫、田村秋子、山本安英(やすえ)らがいた。青山はやがて演出をも受け持つが、演出という概念やその仕事が確立したのは築地小劇場によってであり、照明や効果といった舞台の部門が独立したのも築地小劇場からである。つまり新劇としてのシステムを系統だてたといってよく、築地出身の俳優や演出家が長く新劇を支えてきたということとあわせて、今日の新劇の母胎になった。ただし、第1回公演にマゾーの『休みの日』やチェーホフの『白鳥の歌』とともに表現派戯曲のゲーリングの『海戦』が上演されたというごとく、「演劇の実験室」とのうたい文句を配慮しても、レパートリーに一貫性を欠いたことは否定しがたく、また「民衆のための演劇」というモットーにもかかわらず、一部知識人や学生に劇場が占有された。1928年(昭和3)12月の小山内の急死を経て、翌年3月には思想的な混乱もあり土方らの新築地劇団と、残留の青山らによる劇団築地小劇場に分裂するまで、翻訳劇90、創作劇27編が上演された。なお劇場自体は、昭和初期に左翼演劇の拠点になったが、戦争体制の深化した40年11月に国民新劇場と改称、45年3月の空襲によって焼失した。

[大笹吉雄]

『水品春樹著『新劇去来』(1973・ダヴィッド社)』『菅井幸雄著『築地小劇場』(1974・未来社)』『大笹吉雄著『日本演劇史 大正・昭和初期篇』(1986・白水社)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

つきじ‐しょうげきじょう つきヂセウゲキヂャウ【築地小劇場】
大正一三年(一九二四)小山内薫・土方与志を中心に創立された新劇の劇団。また、東京都中央区築地にあった同劇団の専用劇場。翻訳劇や創作劇を多数紹介した。昭和四年(一九二九)新築地劇団と劇団築地小劇場(残留組)に分裂。劇場は一般劇場として運営されたが同一五年政府の指示で国民新劇場と改称。同二〇年戦火で焼失。

出典:精選版 日本国語大辞典
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旺文社日本史事典 三訂版

築地小劇場
つきじしょうげきじょう
1924(大正13)年,東京築地に開場した日本最初の新劇常設劇場および劇団名
「演劇の実験室」として土方与志 (ひじかたよし) ・小山内薫 (おさないかおる) らにより設立され,新劇運動の拠点となる。劇団は1929年分裂し,貸劇場としてプロレタリア演劇の中心であったが,'45年空襲で焼失した。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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