●米沢藩【よねざわはん】
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米沢藩
よねざわはん
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米沢藩
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藩名・旧国名がわかる事典
よねざわはん【米沢藩】
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世界大百科事典 第2版
よねざわはん【米沢藩】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
米沢藩
よねざわはん
出羽(でわ)国置賜(おきたま)地方を領有した藩。関ヶ原の戦い(1600)の処分により会津120万石から30万石に減封された上杉景勝(かげかつ)を初代藩主とする。以来藩主は、定勝(さだかつ)、綱勝(つなかつ)、綱憲(つなのり)、吉憲(よしのり)、宗憲(むねのり)、宗房(むねふさ)、重定(しげさだ)、治憲(はるのり)、治広(はるひろ)、斉定(なりさだ)、斉憲(なりのり)、茂憲(しげのり)と13代続き、明治維新に至った。領地30万石時代は、置賜郡(山形県)と陸奥(むつ)の信夫(しのぶ)・伊達(だて)両郡(福島県)にわたっていたが、1664年(寛文4)綱勝の急死により半知削封となり、置賜地方(高畠(たかはた)領を除く)15万石に封ぜられた。約6000人の家臣団は米沢城下のほか、下級家臣は城下の郊外に居住して原方(はらかた)衆とよばれ、このほか大身の家臣は農村部に陪臣(ばいしん)集落を設けていた。また米沢藩は領地境に支城7か所(のち5か所)を置き、元禄(げんろく)(1688~1704)以後はこれを役屋(やくや)と称し、足軽30人余を配置する体制を幕末まで続けた。1638年(寛永15)に総検地を行い、実高51万石余を打ち出し、これが半知後は28万石となっている。しかし、大量の家臣団と生産力の低い地域的条件などにより、早くから藩財政は窮乏した。
18世紀末、9代藩主治憲(鷹山(ようざん))が実施した明和(めいわ)・安永(あんえい)の改革および寛政(かんせい)の改革は有名である。おもな政策は、農村の復興策、漆(うるし)・桑(くわ)・楮(こうぞ)および織物などの国産物の奨励、代官制度の改革および藩校興譲(こうじょう)館の設置と教学の振興などであった。改革の主要人物として、竹俣当綱(たけのまたまさつな)・莅戸義政(のぞきよしまさ)(太華(たいか))・黒井忠寄(ただより)、また儒者には藁科松伯(わらしなしょうはく)・神保綱忠(じんぼつなただ)などが輩出した。改革の一定の成功の背景には、初期以来の特産物、青苧(あおそ)・漆蝋(うるしろう)の生産と流通の掌握をはじめ、新たな国産物、養蚕業・織物の発展と統制の成果を見逃すことができない。1868年(慶応4)の戊辰(ぼしん)戦争では奥羽越(おううえつ)列藩同盟の盟主として新政府軍と戦ったが、北越戦争に敗れて降伏。1871年(明治4)廃藩、米沢県、置賜県を経て山形県に編入された。
[横山昭男]
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旺文社日本史事典 三訂版
米沢藩
よねざわはん
中世,大江広元の子孫長井氏が居住。のち伊達氏が長井氏を追って当地を接収。1590年伊達政宗の移封後,会津蒲生氏郷 (がもううじさと) の領となった。関ケ原の戦い後1601年上杉景勝が入部し,以後30万石の城下町として繁栄。'64年養子を認める代償として15万石に減封され,幕末維新まで続いた。9代治憲 (はるのり) のとき藩政改革を実施,特産米沢織を始め,藩の財政を再建し,藩校興譲館を創建した。幕末には奥羽越列藩同盟の中心として新政府に抵抗した。
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