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細川勝元【ほそかわ かつもと】

美術人名辞典

細川勝元
室町前期の武将。幼名は聡明丸、通称六郎、右京大夫。幕府管領を通算21年務める。謀略に長け、初め山名持豊(宗全)と結ぶがやがて山名氏の強大化を抑えんとして対立する。将軍家畠山斯波継嗣を争った応仁の乱では東軍総帥として戦った。平素に励み、竜安寺創建。また和歌書画・犬追物などを好み、医学を研究するなど多趣味であった。文明5年(1473)歿、44才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

ほそかわ‐かつもと〔ほそかは‐〕【細川勝元】
[1430~1473]室町中期の武将。法名、竜安寺宗宝。再三、管領(かんれい)となり、応仁の乱では将軍足利義政を助けて東軍を率いて戦ったが、陣中した。禅宗を信仰し、京都に竜安寺を創建。

出典:小学館
監修:松村明
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編集協力:田中牧郎、曽根脩
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

細川勝元 ほそかわ-かつもと
1430-1473 室町時代の武将。
永享2年生まれ。細川持之(もちゆき)の子。文安2年以後,3度管領(かんれい)となる。将軍家や畠山・斯波(しば)氏の後継争いをめぐって山名持豊(もちとよ)(宗全)と対立。応仁(おうにん)・文明の乱では東軍の総大将としてたたかったが,文明5年5月11日陣中で病死した。44歳。禅に傾倒し,竜安(りょうあん)寺,竜興寺を創建。和歌,絵画,医術にも通じた。通称は六郎。
【格言など】人の器によりそれぞれ使うは君の職也,故に見損ずる時は君の過也(「君慎」)

出典:講談社
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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

ほそかわかつもと【細川勝元】
1430‐73(永享2‐文明5)
室町中期の武将。持之の子。幼名六郎。1445‐49年(文安2‐宝徳1),52‐64年(享徳1‐寛正5),68‐73年(応仁2‐文明5)の3度にわたって管領となる。将軍足利義政の初め,畠山持国の勢力が強く,勝元は山名宗全の娘を夫人としてこれと結び持国に対抗したが,持国の死後は互いに反目を深めた。この対立は1458年(長禄2)の赤松家再興問題で一挙に表面化した。細川氏は嘉吉の乱で没落した赤松氏を再興することによって,これと領国を接する山名氏を牽制しようとした。

出典:株式会社平凡社
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

細川勝元
ほそかわかつもと
[生]永享2 (1430)
[没]文明5 (1473).5.11. 京都
室町時代中期の武将。細川持之の子。幼名聡明丸,通称は九郎。法名宗宝。右京大夫,武蔵守。従四位下。文安2(1445)年以降,三たび管領在職 1445~49,1452~64,1468~73)となった。讃岐,土佐,丹波,摂津の守護となり,畿内近国を中心に領国制を展開した代表的な領国大名。やがて山名持豊(宗全)と対立するにいたり,ついに応仁1(1467)年応仁の乱が起こった。勝元は将軍足利義政をはじめ後土御門天皇後花園天皇を奉じ,おおむね京都東北に陣取り(東軍),十余万の兵を率いて,持豊の率いる西軍と戦った。勝敗はいっこうに決せず,文明5(1473)年3月に持豊が,5月には勝元が相次いで死んだ。勝元は禅宗への帰依があつく,山城に龍安寺,丹波に龍興寺を興した。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

細川勝元
ほそかわかつもと
(1430―1473)

室町中期の武将、室町幕府の管領(かんれい)。幼名聡明丸(そうめいまる)。右京大夫(うきょうのだいぶ)、一時武蔵守(むさしのかみ)を兼ねる。持之(もちゆき)の子。1442年(嘉吉2)13歳で細川宗家を継ぎ、摂津、丹波(たんば)、讃岐(さぬき)、土佐の守護を兼任。45年(文安2)16歳で管領となり、幼少の将軍義政(よしまさ)を助けたのをはじめ、前後3回、通算20年余り管領に在任。山名宗全(やまなそうぜん)(持豊(もちとよ))の女(むすめ)を妻とし、宗全と結んで畠山(はたけやま)氏の内争に干渉したが、ついで政所執事(まんどころしつじ)伊勢貞親(いせさだちか)と結んで赤松氏の再興を助け、斯波義敏(しばよしとし)、畠山政長(まさなが)を援助して、斯波義廉(よしかど)、畠山義就(よしなり)を援助する宗全と対立、ついに味方の諸大名を京都に集め67年(応仁1)大乱に突入した(応仁(おうにん)の乱)。勝元は将軍義政(よしまさ)を擁し、東軍の総大将として宗全の率いる西軍と戦ったが、勝敗が決しないうち宗全が没し、勝元も約2か月後の文明(ぶんめい)5年5月11日病没した。生活は華美であったが、和歌、絵画、犬追物(いぬおうもの)をたしなみ、医術を研究し、また妙心寺の義天玄承(ぎてんげんしょう)、雪江宗深(せっこうそうしん)に参禅し、京都に龍安寺(りょうあんじ)、丹波に龍興(りょうこう)寺を創建した。法名龍安寺宗宝。

[小川 信]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

ほそかわ‐かつもと【細川勝元】
室町中期の武将。通称九郎。管領細川持之の子。応仁元年(一四六七)応仁の乱が起こると将軍義政と後土御門天皇を奉じて山名宗全と戦ったが、勝敗がつかないうちに病没。禅を信じ、京都に龍安寺を建立。永享二~文明五年(一四三〇‐七三

出典:精選版 日本国語大辞典
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旺文社日本史事典 三訂版

細川勝元
ほそかわかつもと
1430〜73
室町中期の武将
1445年以降3度管領となる。将軍足利義政,畠山・斯波 (しば) 氏らの後嗣をめぐる争いで山名持豊(宗全)と対立。'67年応仁の乱では,東軍の主将として将軍義政を擁し,畠山政長・斯波義敏らを後援し,持豊を主将とする西軍と戦ったが乱中に病死した。禅に帰依,竜安寺をおこした。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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