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緒方洪庵【おがた こうあん】

美術人名辞典

緒方洪庵
幕末の蘭学者・蘭医・教育者。備中藩士佐伯惟因の三男。名は章、字は公裁通称三平、別号に適々斎等。大坂蘭学医中天遊に師事し、さらに江戸坪井信道・宇田川椿にも学ぶ。のち長崎遊学し、適々斎塾を開き、医業の傍ら蘭学を教えた。福沢諭吉ら多くの逸材を育成する。幕府奥医師・法眼となり、西洋医学所頭取を兼ねた。に『虎狼痢治準』『扶氏経験遺訓』『病学通論』等。文久3年(1863)歿、54才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

おがた‐こうあん〔をがた‐〕【緒方洪庵】
[1810~1863]江戸後期の蘭学者・医者・教育者。備中の人。名は章。江戸・長崎で医学を学び、医業のかたわら蘭学塾(適塾)を開いて青年を教育。種痘の普及にも尽力し、日本における西洋医学の基礎を築いた。著「病学通論」など多数。

出典:小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

緒方洪庵 おがた-こうあん
1810-1863 江戸時代後期の医学者,蘭学者。
文化7年7月14日生まれ。大坂にでて中天游に,天保(てんぽう)2年江戸で坪井信道に入門。長崎に遊学の後,大坂に適々斎塾(適塾)をひらく。門人は3000人ともいわれ,大村益次郎,福沢諭吉らがいる。文久2年幕府にまねかれ,奥医師と西洋医学所頭取をかねた。文久3年6月10日死去。54歳。備中(びっちゅう)(岡山県)出身。本姓は佐伯。名は章。字(あざな)は公裁。通称は三平。別号に華陰,適々斎。著訳書に「病学通論」「人身窮理小解」など。
【格言など】病者に対しては唯病者を視るべし,貴賤貧富を顧ることなかれ(「扶氏医戒」)

出典:講談社
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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

おがたこうあん【緒方洪庵】
1810‐63(文化7‐文久3)
江戸末期の蘭学者,医学者,教育者,奥医師。その門からは明治期日本で活躍した多くの人材を輩出した。名は章,字は公裁,号を華陰,適々斎,洪庵とした。備中国足守に生まれる。父とともに大坂に出,医学に進む決心をし,1826年(文政9)中天游の門に入る。4年後江戸に行き31年(天保2)坪井信道に就き,さらに宇田川玄真(うだがわげんしん)にも学んだ。天游の死で大坂に出るが,36年には長崎に遊学。38年大坂に戻り瓦町で医業に従事するとともに蘭学塾を開く。

出典:株式会社平凡社
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

緒方洪庵
おがたこうあん
[生]文化7(1810).7.14. 備中,足守(あしもり)
[没]文久3(1863).6.10. 江戸
江戸時代の代表的な蘭学者,医学者,教育家。 17歳で大坂に出て中天游に学ぶ。次いで江戸に出て坪井信道に学び,さらに長崎に行って蘭学を学び,29歳のとき大坂に帰って開業した。また,大坂の瓦町に適々斎塾 (適塾ともいう) を開いて後進の教育にあたった。そこでは医学よりむしろオランダ語の学習に力が入れられ,オランダ語を介して西洋の事情や兵学を知ろうとする者が全国から集った。門下生は 1000人をこえ,そのなかから橋本左内,大村益次郎,福沢諭吉,大鳥圭介,箕作秋坪,長与専斎ら国家有為の人材が輩出した。文久2 (1862) 年,幕命を受けて江戸の西洋医学所頭取となったが,翌年した。『病学通論』は日本で最初の病理学書。ほかに『扶氏経験遺訓』『虎狼痢 (ころり) 治準』がある。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

緒方洪庵
おがたこうあん
(1810―1863)

江戸末期の蘭方(らんぽう)医学者。文化(ぶんか)7年7月14日、備中(びっちゅう)国(岡山県)足守(あしもり)藩士佐伯瀬左衛門(さえきせざえもん)の三男として生まれる。幼名田上騂之助(せいのすけ)、名は章、字(あざな)は公裁、適々斎または華陰と号した。通称は三平、のち洪庵と改めた。1825年(文政8)父が大坂蔵屋敷留守居役になったため同行して大坂に出た。生来柔弱であり、武士に適さないと自覚し、病苦の人を救う医の道を志し、翌1826年中天游(なかてんゆう)の門に入った。4年後、苦心して江戸の坪井信道(しんどう)の塾に入り、3年間在塾。一方、宇田川榛斎(しんさい)、宇田川榕菴(ようあん)、箕作阮甫(みつくりげんぽ)らの指導も受け、学は大いに進んだ。そして洪庵の訳になる『人身窮理(きゅうり)小解』『視力乏弱病論』『和蘭詞解(オランダしかい)略説』『白内翳治(はくないえいち)術集編』などが写本で広く読まれた。また榛斎と榕菴の大著『遠西医方名物考 補遺』の度量衡表を分担執筆した。

 1836年(天保7)長崎に赴く。オランダ商館長ニーマンJohannes Erdewin Niemann(1796―1850)について学んだともいわれるが、良友に恵まれ、青木周弼(しゅうひつ)、伊藤南洋(岡海蔵)(1799―1884)と『袖珍内外方叢(しゅうちんないげほうそう)』を共訳、好評を博し広く利用された。このころから洪庵を名のる。

 1838年、中天游門下の億川百記の娘八重(1822―1886)と結婚、大坂・瓦(かわら)町に適々斎塾(適塾)を開き、1843年過書(かしょ)町(大阪市中央区北浜3―3)に移った。洪庵の名声は高く全国から俊秀が集まり、移転後の塾内寄宿門人は637名を数える(その名を記録した『姓名録 適々斎』は日本学士院に保存)。外塾生をあわせると2000人とも3000人ともいわれる。おもな塾生には、箕作秋坪(しゅうへい)、大鳥圭介(けいすけ)、佐野常民、長与専斎、柏原学而(かしわばらがくじ)(1835―1910)、福沢諭吉、花房義質(はなぶさよしもと)(1842―1917)、緒方郁蔵(いくぞう)、坪井信良(1825―1904)、石井信義(1840―1882)らがおり、また塾生の橋本左内(さない)は安政(あんせい)の大獄で、大村益次郎(ますじろう)は1869年(明治2)刺客に襲われたのちに死亡した。明治初期の政治家・軍人の列には薩長(さっちょう)の顔が、文化人の列には適塾の顔が並ぶ。

 著書、訳書は多く、前出のもののほか、緒方郁蔵との共訳で全国に普及した大著『扶氏(ふし)経験遺訓』(30巻)や、安政のコレラ流行(1858)に際して出版した『虎狼痢治準(ころりちじゅん)』、『病学通論』(3巻)、ジェンナー牛痘種痘に関する写本『モスト牛痘説』などがある。

 1849年(嘉永2)牛痘苗が輸入されて京都に到着した際、越前(えちぜん)藩医笠原白翁(かさはらはくおう)に分与を請い、厳かな分苗式を行った。そして大坂に除痘館(じょとうかん)を設け、大和屋(やまとや)喜兵衛、緒方郁蔵らの協力を得て種痘を行い、ついに奉行所(ぶぎょうしょ)から官許を得るなど天然痘の予防に貢献、その記録『除痘館記録』がある。

 1862年(文久2)、洪庵は幕府の強い要請を受けて奥医師兼医学所頭取に就任した。しかし10か月後の文久(ぶんきゅう)3年6月10日、多量の血を吐いて急逝し、江戸駒込(こまごめ)高林寺と大坂の龍海寺に葬られた。贈従(じゅ)四位。現在、適塾は国の史跡・重要文化財に指定され、大阪大学が管理し一般に公開されている。

[藤野恒三郎]

『緒方富雄著『緒方洪庵伝』(1942/増補版・1977・岩波書店)』

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367日誕生日大事典

緒方洪庵 (おがたこうあん)
生年月日:1810年7月14日
江戸時代末期の医師;蘭学者
1863年没

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
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精選版 日本国語大辞典

おがた‐こうあん【緒方洪庵】
江戸後期の医者、蘭学者。備中の人。江戸と長崎で蘭学を修得。大坂で診療と種痘の普及に努める一方、蘭学塾(適塾)を開いて福沢諭吉、大村益次郎、橋本左内、長与専斎など多くの門弟を育てる。のち、幕府の奥医師、西洋医学所頭取。著「病学通論」「扶氏経験遺訓」など。文化七~文久三年(一八一〇‐六三

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旺文社日本史事典 三訂版

緒方洪庵
おがたこうあん
1810〜63
江戸末期の蘭学者・医者・教育者
備中(岡山県)の人。江戸に出て蘭学を学び,1838年大坂に蘭学塾適々斎塾を開き,青年の教育にあたり,大村益次郎・福沢諭吉など有為な人材を輩出した。わが国最初の病理学の編著『病学通論』を出し,牛痘接種の普及につとめ,西洋医学所(医学所の前身)頭取となった。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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