●羌【きょう】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
羌
きょう
Qiang; Ch`iang
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デジタル大辞泉
きょう〔キヤウ〕【×羌】
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世界大百科事典 第2版
きょう【羌 Qiāng】

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日本大百科全書(ニッポニカ)
羌
きょう
中国古代、青海地方からのちに陝西(せんせい)、甘粛(かんしゅく)にまで広がった主としてチベット系の民族。彼らが「羌」とよばれたのは、チベット語のkhyu(あるいはkhyu。群れ、集団の意)の音訳で、自らの集団を――khyu
と称したため(たとえば先零(せんれい)羌、焼何羌、焼当羌など)、羌族という総称が成立した。羌族は小部族的結合の集団をなして遊牧生活を営んでいたが、紀元前2世紀には農耕を伴うものも現れた。
前1世紀後半、漢の武帝が匈奴(きょうど)を攻撃して河西(かせい)回廊を奪い、西域(せいいき)交通路の確保のため匈奴と青海の羌・氐(てい)との連携を断つと、羌族の動揺が始まった。漢は護羌校尉(ごきょうこうい)の官を設けて、侵攻と懐柔の両策をもって統御し、後漢(ごかん)時代には青海地方に深く進み、漢人の屯田を積極的に推進し、羌族を陝西、甘粛の諸郡に移住させた。内郡に移住した羌族は漢の小吏や豪族に使役されるなど、民族的差別と侵奪の下に置かれた。その結果、陝西の先零羌の大反乱(107~118)をはじめ、しばしば反乱を起こして漢帝国を揺るがした。漢の対外的膨張政策の結果として内地に含み込まれた匈奴、氐、羌などの少数民族問題は、その後も中国の内部矛盾と絡み合って噴出し、4世紀の五胡(ごこ)十六国時代を現出した。384年、長安を都として後秦(こうしん)を建てた姚萇(ようちょう)は羌族の出身である。
[佐藤智水]
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精選版 日本国語大辞典
きょう キャウ【羌】
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旺文社世界史事典 三訂版
羌
きょう
漢代には西羌と呼ばれ,その姚 (よう) 氏が五胡十六国の後秦 (こうしん) を建てた。唐代にタングート(党項)の名で現れ,一部は吐蕃に属したが,他は寧夏地方に移り,11世紀に西夏を建てた。
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