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肥前国【ひぜんのくに】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

肥前国
ひぜんのくに
現在の佐賀県と,壱岐国,対馬国を除く長崎県旧国名西海道の一国。上国。古くは「火国 (ひのくに) 」と称した。天武天皇の頃 (674~685) に肥前と肥後とに分かれたとみられる。『魏志倭人伝』の末盧国は唐津市付近とされる。『旧事本紀』には松津国造,末羅国造,葛津立国造,筑志米多国造の4国造があったとされている。『肥前国風土記』には肥前についての古い伝承が記録されているが,現存するものは抄本であり,その成立も奈良時代と平安時代とに分かれ,11郡,70郷とみえる。国府,国分寺はともに佐賀県佐賀市。『延喜式』には基肄郡,養父郡,三根郡などの 11郡,『和名抄』には 45郷,田1万 3900町を載せている。鎌倉時代には初め大宰少弐 (だざいのしょうに) の武藤氏が守護も兼ねたが,のちには北条氏がこれにあたり,鎮西探題 (→九州探題 ) 兼補となった。南北朝時代には一色氏,室町時代には今川氏,渋川氏が守護となったが,肥後の菊池氏が勢力を伸ばしたときもあり,松浦郡には松浦党と称する武士団があり,さらに小城の千葉氏は肥前国一円に勢力をふるった。戦国時代には龍造寺隆信が少弐氏を破って一時肥前国を支配した。江戸時代には佐賀に鍋島氏,平戸に松浦氏,大村に大村氏,五島 (のちに福江) に五島氏などが封じられ幕末にいたった。明治4 (1871) 年の廃藩置県後,伊万里県と長崎県になり,同5年に伊万里県は佐賀県となったが,1883年に現在の佐賀県と長崎県に改編された。

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藩名・旧国名がわかる事典

ひぜんのくに【肥前国】
現在の壱岐(いき)対馬(つしま)を除く佐賀県長崎県のほぼ全域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で西海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の佐賀市大和(やまと)町におかれていた。南北朝時代少弐(しょうに)氏が勢力を伸ばしたが、戦国時代には竜造寺氏が戦国大名に成長した。豊臣秀吉(とよとみひでよし)の朝鮮出兵(文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役(えき))で朝鮮から連れてこられた陶工によって有田焼(ありたやき)の基礎がつくられた。近世には長崎がオランダ貿易の窓口として栄え、江戸幕府直轄領の長崎を支配するため、幕府は長崎奉行をおいた。1637年(寛永(かんえい)14)に勃発(ぼっぱつ)した島原の乱の後、キリシタン統制が強まった。江戸時代には佐賀藩唐津藩など10藩があった。1871年(明治4)の廃藩置県により伊万里(いまり)県、長崎県が誕生。伊万里県は翌年に佐賀県と改称、1876年(明治9)に三瀦(みずま)県、さらに長崎県に編入されたが、1883年(明治16)に佐賀県が再置された。◇肥後(ひご)国(熊本県)と合わせて肥州(ひしゅう)ともいう。

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

ひぜんのくに【肥前国】
旧国名。肥州。現在のほぼ佐賀県,長崎県に当たる。
古代
 西海道に属する上国(《延喜式》)。古代の〈火の国〉の一部で696年(持統10)ころまでに,肥前国と肥後国とに分立されたらしい。《肥前国風土記》に,〈肥前ノ国ハ,本,肥後ノ国ト合セテ一ツノ国ナリ〉とある。有明海を介して肥後国と結ばれていたこと,また火君の勢力が広く肥前国にまで及んでいたことから,〈火の国〉と総称されることになったものだろう。《魏志倭人伝》の末盧国(まつろこく)以来,海上交通の要衝を占め,大陸文化を早くから導入していたことは,支石墓群の分布などからうかがえよう。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

肥前国
ひぜんのくに

佐賀県全域、および長崎県の壱岐(いき)・対馬(つしま)を除く地域の旧国名。西海道(さいかいどう)に属す。『肥前国風土記(ふどき)』によれば、肥前国はもと肥後国とともに一国であり、火国(ひのくに)(肥国)と称したという。のち分かれて前後の両国となった。ただし、肥前国と肥後国の間には筑後(ちくご)国が位置しており、一部は有明(ありあけ)海、島原湾などによって隔てられている。また同風土記には、基肄(きい)、養父(やぶ)、三根(みね)、神埼(かむさき)、佐嘉(さが)、小城(おぎ)、松浦(まつら)、杵島(きしま)、藤津(ふじつ)、彼杵(そのき)、高来(たかく)の11郡と70の郷が記されている。

 肥前地方は、対馬・壱岐を通じて、古くから朝鮮や中国と交流が深かった。北松浦(きたまつうら)半島の福井洞穴(長崎県佐世保(させぼ)市吉井(よしい)町)は後期旧石器時代から縄文時代に至る重層遺跡であるが、その最下層からは3万年以上前の遺物(大型両面加工石器、スクレーパーなど)が発見されている。当時、陸続きであった大陸から移動してきた人々の遺跡である。また、同遺跡の縄文時代草創期の地層から発見された豆粒文(とうりゅうもん)土器は、現在日本最古の土器(約1万年前)とされている。肥前北部地域には朝鮮や中国との交流を示す遺跡が多く、佐賀県唐津(からつ)市の菜畑(なばたけ)遺跡からは縄文晩期後半の水田跡、炭化米、農器具が発見され、それが日本でもっとも古い稲作遺跡とされていることから、大陸文化の伝播(でんぱ)を早く受け取った地域であったことがうかがえる。東部地域にも遺跡が多く、姫方(ひめかた)遺跡(佐賀県みやき町)からは、弥生(やよい)中期から後期の甕棺(かめかん)400基が発見され、これは甕棺墓としてはわが国で最大級のものであり、国史跡に指定されている。田代太田(たしろおおた)遺跡(佐賀県鳥栖(とす)市)は6世紀後半に築造された装飾古墳で、筑前(ちくぜん)との関連の密接さを示している。また丸山(まるやま)遺跡(佐賀市久保泉(くぼいずみ)町)からは3基の円墳と舟形石棺、円山(まるやま)遺跡(佐賀県小城(おぎ)市三日月(みかつき)町)からは冑(かぶと)、短甲、勾玉(まがたま)などが出土し、古代国家の統一過程の動きがみられる。

 大化改新(645)による集権国家体制の形成により、肥前国にも国府が置かれるようになり、その位置が最近の発掘調査によって佐賀市大和(やまと)町久池井(くちい)であることが確定した。発掘により肥前国庁跡が発見され、国の史跡に指定されている。また、班田収授法に伴う条里制も施行され、佐賀平野の東部から中部にかけて施行された遺跡や地名が残っている。長崎県では、唯一の平野である諫早(いさはや)地方に条里遺構が認められる(諫早市小野町)。

 律令(りつりょう)体制が動揺する8世紀後半ごろから荘園(しょうえん)が形成されてきたが、11世紀には規模の大きな荘園が出現した。院御領の荘園としては神崎荘(かんざきのしょう)、河副(かわそえ)荘、巨勢(こせ)荘などがあり、宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)領としては高来別府(たかくべふ)、大楊(おおやなぎ)荘(佐賀県小城市牛津町乙柳(おとやなぎ))、綾部(あやべ)荘(みやき町)、赤自(あかじ)荘(小城市三日月町赤司(あかぜ))が、また、太宰府(だざいふ)天満宮安楽寺(あんらくじ)領として佐嘉荘(佐賀市大和町)、蠣久(かきひさ)荘(佐賀市鍋島(なべしま)町)、鳥栖荘、神辺(こうのえ)荘(ともに鳥栖市)などがあった。

 荘園の荘官や在庁官人が実力を蓄えて武士団を形成していったが、平安末期には高木、後藤、窪田(くぼた)、龍造寺(りゅうぞうじ)などの各氏が存在していた。

 鎌倉時代には後家人(ごけにん)が70家余りいたという。数のうえでは九州でも比較的多いが、その所領規模は概して小さかった。松浦地方に勢力をもったのが松浦源大夫久(まつらげんたいゆうひさし)を祖とする松浦党である。文永(ぶんえい)・弘安(こうあん)の役(1274、81)で蒙古(もうこ)軍と肥前の後家人が戦い、そのとき松浦党に属する諸氏は多くの被害を受けたという。

 南北朝期には、九州における足利(あしかが)方と南朝方の対立を軸に諸氏の離合集散が繰り返されたが、そのなかにあって肥前では少弐(しょうに)氏が勢力を伸ばした。1371年(建徳2・応安4)に今川了俊(りょうしゅん)が九州探題として入州し、九州の統一を進めたことによって、少弐氏は一時弱体化したが、今川了俊の失脚後はふたたび勢いを盛り返し、筑前に進出してきた大内氏と対抗した。だが、1497年(明応6)に大内氏と戦って少弐政資(まさすけ)が敗死したことから急速に衰えた。かわって勢力を増したのは千葉氏、橘(たちばな)氏である。千葉氏は小城郡晴気(はるけ)荘を拠点に、橘氏は杵島郡長島荘を拠(よ)り所にしていた。しかし16世紀初頭には、それぞれ内紛が起きて衰退した。

 戦国期になると龍造寺氏の台頭が著しい。龍造寺氏は1185年(文治1)に鎌倉幕府から佐賀郡龍造寺村を安堵(あんど)され後家人に任じられているように、古くからの在地領主であり、龍造寺家兼(いえかね)(剛忠(ごうちゅう))のときに少弐氏の勢力拡大に乗じて伸長し、剛忠の曽孫(そうそん)の隆信(たかのぶ)によって肥前全域を統御するまでになった。隆信は1570年(元亀1)に豊後(ぶんご)の大友宗麟(そうりん)の軍を撃破して勢いをつけ、1578年(天正6)には有馬氏を降(くだ)して肥前を制した。しかし、1584年(天正12)に有馬鎮貴(しずたか)・島津家久(いえひさ)の連合軍との戦いで敗死し、龍造寺氏は衰退する。

 1587年は九州地域で画期をなす年であった。豊臣(とよとみ)秀吉の九州進攻と九州内の大名配置が行われたからである。秀吉が鍋島直茂(なおしげ)を長崎奉行(ぶぎょう)に任命したように、龍造寺氏の家中にあって鍋島氏は実権をしだいに掌握し、朝鮮侵略でそれを確定した。

 朝鮮侵略との関連で肥前の領域が決まり、江戸時代の大名配置の基礎となった。たとえば、肥前東部の基肄郡と養父半郡は1587年には小早川隆景(こばやかわたかかげ)に与えられていたが、99年(慶長4)には対馬領主の宗義智(そうよしとし)に宛行(あておこな)われ、また、松浦郡は波多(はた)氏が領していたが、93年(文禄2)に波多親(ちかし)が秀吉によって改易され、その所領は秀吉側近の寺沢広高に与えられた。

 幕藩期には、肥前に、佐賀藩35万7000石、小城藩7万3252石、鹿島(かしま)藩2万石、蓮池(はすのいけ)藩5万2600石、大村藩2万7977石、唐津(からつ)藩6万石、五島(ごとう)藩1万2600石、島原藩7万石、平戸(ひらど)藩6万1700石、平戸新田藩1万石(以上の石高(こくだか)は明治初年の表高)の10藩と、対馬藩田代(たしろ)領1万1000石余と天領(長崎周辺)が置かれた。佐賀藩では1607年の龍造寺政家(まさいえ)・高房(たかふさ)の死去によって鍋島氏が名実ともに実権を掌握し、のち小城・鹿島・蓮池3藩を支藩として興した。唐津藩は寺沢氏の断絶により一時天領となるが、1649年(慶安2)に大久保忠職(ただもと)が入封して譜代(ふだい)藩領となり、以後、松平、土井、水野、小笠原(おがさわら)の諸大名が転封してきた。島原藩は初め有馬氏領であったが、一時天領となり、ついで松倉氏が入封して譜代藩領となった。しかし、1637年(寛永14)島原の乱を惹起(じゃっき)することとなり、翌年松倉勝家(かついえ)は除封され、以後、高力(こうりき)、松平の各大名が入封した。平戸藩は歴代松浦氏の支配であり、平戸新田藩はその支藩である。大村藩、五島藩は、それぞれ大村、五島氏の支配にかかる外様(とざま)の小藩である。また、田代領には対馬藩の代官所が置かれ、長崎は幕府の長崎奉行所が管轄した。

 明治維新を迎えると肥前は廃藩置県によって大きく変わった。1871年(明治4)7月には佐賀、小城、鹿島、蓮池、唐津の各県が成立し、9月厳原(いづはら)県(旧対馬藩)と合併して伊万里(いまり)県となり、翌年佐賀県と改称、76年には一時三潴(みづま)県に併合され、さらに長崎県に併合された。また、71年に大村、島原、平戸、福江(旧五島藩)の各県も成立し、同年長崎県に統合された。83年5月長崎県のうちに肥前10郡を分けて佐賀県を再置し、現在の2県となる。肥前の物産には、有田焼(ありたやき)(伊万里焼)、唐津焼、長崎木綿、べっこう細工、長崎カステラなどがある。

[長野 暹]

『『佐賀県史』全3巻(1967~68・佐賀県)』『『長崎県史』全8巻(1963~80・吉川弘文館)』

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デジタル大辞泉

ひぜん‐の‐くに【肥前国】
肥前

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