●臨済宗【りんざいしゅう】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
臨済宗
りんざいしゅう
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デジタル大辞泉
りんざい‐しゅう【臨済宗】
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世界大百科事典 第2版
りんざいしゅう【臨済宗】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
臨済宗
りんざいしゅう
中国と日本の、仏教の一派。曹洞(そうとう)、黄檗(おうばく)の2宗にあわせて、禅宗と総称される。唐(とう)末の人、臨済義玄(ぎげん)を祖とし、参禅問答による自己究明を宗旨とする。日本では鎌倉時代以後、宋(そう)朝の臨済宗が伝えられ、栄西(えいさい)の建仁寺(けんにんじ)、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の建長寺、無学祖元(むがくそげん)の円覚寺(えんがくじ)、円爾弁円(えんにべんえん)の東福寺など、14本山を数え、末寺数は約7000、信徒3万といわれる。江戸初期に始まる本末再編、檀家(だんか)制度の定着で、各派ともに教団としては特色を失うが、妙心寺の関山慧玄(かんざんえげん)の正法を受ける白隠慧鶴(はくいんえかく)の活動と、その門下の師家たちが、厳しく各派の専門道場を守り、一個半個の後継者育成に努め、早くより海外に知られる近代日本仏教として、高く評価されるようになった。
[柳田聖山]
歴史
中国
臨済義玄と弟子たちの動きは、唐末五代の戦火でいったん不明となるが、7代目の慈明楚円(じみょうそえん)(986―1039)が湖南に道場をおこし、その弟子黄竜慧南(おうりょうえなん)(1002―69)と楊岐方会(ようぎほうえ)(992―1049)の2人が、広く士大夫の帰依(きえ)を得て、江西の地に宗旨を再編する。慧南の仕事は、唐中期の馬祖道一(ばそどういつ)に始まる洪州(こうしゅう)宗の正系として、臨済の禅を歴史化し、『四家録』を編集して、馬祖の道場のあった江西北部に教線を張ったこと、とくに名公の参禅を得て、文字禅の宣揚に努めたことだが、楊岐方会とその弟子たちは、長江北岸の四祖山や五祖山など、馬祖以前の古道場を再興し、達磨(だるま)以来の古則公案(こうあん)の総合に努め、やがて趙州無字(じょうしゅうむじ)の公案による見性(けんしょう)体験の体系化に成功するに至る。楊岐4代の圜悟克勤(えんごこくごん)は、『碧巌録(へきがんろく)』の提唱で知られ、やや文字禅の傾向があるが、その弟子大慧宗杲(だいえそうこう)は『碧巌録』の版木を焼いたといわれ、文字禅を厳しく退けるとともに、坐禅(ざぜん)と黙照(もくしょう)に傾く曹洞宗の禅を批判し、徹底して見性大悟を主張した。ちょうど北宋(ほくそう)末より南宋遷都のときで、急進的国粋主義の動きが強まって、首都臨安(りんあん)を中心とする五山十刹(ござんじっせつ)制の確立は、大慧の弟子たちの入内(にゅうだい)説法と関係し国祚長久(こくそちょうきゅう)を祈る禅僧の自主規制とみられる。黄竜派が早く法系を失ったのち、宋朝臨済禅の代表となる楊岐派は、そうした公案禅の体系と、五山十刹制度をもたらして、やがて日本に伝来するのであり、一種の海外亡命であった。
[柳田聖山]
日本
鎌倉と京都を中心に、武家や皇室の帰依で、次々に創せられた禅刹(ぜんさつ)は、のちに室町幕府の成立とともに、夢窓疎石(むそうそせき)を開山とする、天竜寺と相国寺(しょうこくじ)を軸に再編され、新しい五山十刹制下に置かれた。日本臨済宗の主流は、大慧とともに圜悟に次ぐ、宋朝臨済宗の少数派であった虎丘紹隆(こきゅうじょうりゅう)(1077―1136)の系統である。江戸時代の初め、隠元隆琦(いんげんりゅうき)の来朝を期として、従来は五山の外に置かれた大徳寺と妙心寺の新しい動きから、中国・日本の禅の流れを総括し、24流とする説が現れる。栄西の黄竜宗、道元の曹洞宗、その他を除くと、約20流が虎丘下に属する。虎丘の宗旨が日本の好みに応じたのであり、白隠の公案禅はその集大成といえる。
[柳田聖山]
教義
日本における臨済宗の発展は、公案禅を踏まえる、宋朝文明の日本化とされる。たとえば、修行と悟りの過程を、牧童が牛を訓練するのに例え、10枚の絵と歌によって説く、2種類の「十牛図頌(じゅうぎゅうずじゅ)」がある。ともに北宋中期のものだが、一はおもに中国で流行し、一は日本だけに受容された。前者は牛を飼いならし終わって、牧童が牛とともに天に昇り、その姿を消し去るところを理想とし、一個の円相で示す。後者はこれを第八位に引き下げ、第九位に花咲き水流れる自然を、第十位に布袋を担いで町角に立つ人物を描いて、これを悟りの生きざまとする。とりわけ、前者の最後の円相を、後者が10枚の絵の背後に置くのは、頓悟(とんご)的な見性体験と、その日常化の思考を示すもので、これが日本民族の好みとなる。京都の禅寺を中心に五山文学や書跡、水墨美術をはじめ、茶の湯、能楽、建築、庭園など、日本で日常生活に即した禅文化の発生をみるのも、理由のないことではない。
[柳田聖山]
『柴山全慶著『臨済の禅風』(1970・春秋社)』
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精選版 日本国語大辞典
りんざい‐しゅう【臨済宗】
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旺文社日本史事典 三訂版
臨済宗
りんざいしゅう
坐禅を組みながら師の与える公案 (こうあん) を解決して悟りに達する(看話禅 (かんなぜん) )。鎌倉新仏教の一つとして主として上層武士間に広まり,鎌倉・室町時代には幕府の支持により,京都・鎌倉の五山を中心に隆盛をきわめた。江戸中期に白隠慧鶴 (はくいんえかく) が出,明治時代以後諸派に分かれ,現在14派に分立している。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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