●薬子の変【くすこのへん】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
薬子の変
くすこのへん
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デジタル大辞泉
くすこ‐の‐へん【薬子の変】
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世界大百科事典 第2版
くすこのへん【薬子の変】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
薬子の変
くすこのへん
平安時代初期に起こった平城(へいぜい)上皇と嵯峨(さが)天皇の間の抗争事件。藤原薬子(式家(しきけ))は、その女(むすめ)が春宮(とうぐう)時代の平城天皇の後宮に入った際、自分も春宮に仕え、その愛寵(あいちょう)を被り、即位後は尚侍(ないしのかみ)となり、恐憚(きょうたん)するところなく思いのままふるまっていたが、809年(大同4)病により平城天皇が嵯峨天皇に譲位すると権勢を失ったため、薬子の縁で勢力を得ていた兄仲成(なかなり)と謀り、上皇の復位をねらい、上皇と画策し、平城(へいじょう)遷都を実施しようとした。嵯峨天皇側では上皇方に対し、表面的には協力を装いながら警戒を怠らずにいたところ、810年(弘仁1)6月、上皇は突如、観察使(かんさつし)をやめて参議の号に復せとの詔(みことのり)を発し、9月に入ると平城遷都を正式に謀ってきた。嵯峨天皇はいちおう上皇の命に従い坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)らを造宮使に任命したが、政令が上皇方と天皇方とから出る二所朝廷の様相を呈することになってしまったので、ついに9月10日に至り天皇は仲成を逮捕して佐渡権守(ごんのかみ)に貶降(へんこう)し、薬子を追放に処した。これに対し上皇は薬子とともに平城京から東国に向かい対抗しようとしたが、坂上田村麻呂らが迎撃態勢をとったので、やむをえず平城京に戻り剃髪(ていはつ)し、薬子は自殺した。乱は3日間で終息し、宮廷内の抗争以上を出なかったが、この変の結果、皇太子高岳(たかおか)親王は、その父が平城上皇であったために廃され、皇弟大伴(おおとも)親王が皇太弟となり、嵯峨天皇の信任厚い藤原冬嗣(ふゆつぐ)の台頭が著しく、藤原北家(ほっけ)繁栄の端緒となった。
[森田 悌]
『目崎徳衛著『平安文化史論』(1968・桜楓社)』
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精選版 日本国語大辞典
くすこ‐の‐へん【薬子の変】

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旺文社日本史事典 三訂版
薬子の変
くすこのへん
嵯峨天皇の即位した809年,平城上皇の寵愛をうけた藤原薬子が,兄仲成とはかって,上皇の復位と平城京復都を実現しようとしたが,翌810年発覚して鎮圧された。薬子は自殺,仲成は敗死して式家は没落し,上皇も出家した。これを契機として藤原冬嗣が蔵人頭となって,北家が台頭した。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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