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藤原不比等【ふじわらのふひと】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

藤原不比等
ふじわらのふひと
[生]斉明4(658)/斉明5(659)
[没]養老4(720).8.3.
奈良時代初期の廷臣。鎌足の次男。母は車持国子の娘与志古娘。光明皇后の父。文武4 (700) 年勅を受けて刑部親王らと『大宝律』 (6巻) ,『大宝令』 (11巻) の編纂に着手,大宝1 (701) 年に完成,同年正三位,大納言,和銅1 (708) 年正二位,右大臣養老2 (718) 年律令の修正を行い『養老律』 (10巻) ,『養老令』 (10巻) の編纂に尽力。同7年太政大臣を固辞後太政大臣,正一位を贈られ文忠公と諡 (おくりな) され,天平宝字4 (760) 年淡海公と称された。その男子4人は藤原4家のとなり,女子宮子文武天皇夫人,光明子聖武天皇となった。

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デジタル大辞泉

ふじわら‐の‐ふひと〔ふぢはら‐〕【藤原不比等】
[659~720]奈良初期の公卿鎌足(かまたり)の二男。諡号(しごう)、文忠公・淡海公。右大臣。大宝律令養老律令の編纂(へんさん)に参加。娘の宮子は文武天皇夫人、光明子は聖武天皇皇后となり、臣下の立后の例をひらき、藤原氏繁栄の基礎をつくった。

出典:小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

藤原不比等 ふじわらの-ふひと
659-720 飛鳥-奈良時代の公卿(くぎょう)。
斉明天皇5年生まれ。藤原鎌足(かまたり)の次男。母は車持与志古娘(くるまもちの-よしこのいらつめ)。藤原四家の祖。「大宝律令」撰定の功で大納言となり,和銅元年(708)正二位,右大臣。律令体制を確立し,平城遷都,「養老律令」編修をすすめた。娘宮子,光明子を文武・聖武(しょうむ)天皇の後宮にいれ,皇権とむすぶ藤原氏の特権的地位をきずいた。「懐風藻」に詩5首がのこる。養老4年8月3日死去。62歳。贈正一位太政大臣。名は史ともかく。諡(おくりな)は淡海公。

出典:講談社
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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

ふじわらのふひと【藤原不比等】
659‐720(斉明5‐養老4)
奈良時代初期の重臣。史(ふひと)とも表記。鎌足の次男で,母は車持君国子(くるまもちのきみくにこ)の娘の与志古(よしこ)。幼時は山科(京都市山科区)の田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)の家で育ったので,史と名づけられたという。父の死後3年目に起こった壬申の乱では,田辺一族から近江方の将軍となった者も出たが,不比等自身はまだ少年であったし,乱後の天武朝には,姉妹の氷上(ひかみ)や五百重(いおえ)が天武夫人(ぶにん)としてそれぞれ但馬(たじま)皇女や新田部皇子を生んだためもあって,順調に官途を歩みだしたらしく,持統朝で判事(はんじ)に任命されたときには,数え年31歳で直広肆(じきこうし)(従五位下相当)に昇っていた。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

藤原不比等
ふじわらのふひと
(658/659―720)

飛鳥(あすか)・奈良時代の政治家。藤原鎌足(かまたり)の第2子。武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)、宮子(みやこ)(文武(もんむ)天皇夫人)、安宿媛(あすかひめ)(光明(こうみょう)皇后)の父。名を史とも書く。理由あって山科田辺史大隅(やましなのたなべのふひとおおすみ)の家に養われたからとも伝える。689年(持統天皇3)判事とあるのが初見。大宝律令(たいほうりつりょう)の撰定(せんてい)に参加。そのころ、すでに美努(みの)王に嫁して葛城(かつらぎ)王(後の橘諸兄(たちばなのもろえ))ら三児を産んでいた県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)と結婚。その宮廷における隠然たる勢力にも助けられて、しだいに政界に進出、中納言(ちゅうなごん)から大納言、ついで補佐の功により食封(じきふ)5000戸を賜ったが、辞退して2000戸にとどまる。708年(和銅1)には右大臣に進み、また女(むすめ)の安宿媛を皇太子首(おびと)皇子(後の聖武(しょうむ)天皇)の妃に納(い)れ、専権的傾向を強くする。718年(養老2)自ら中心となって養老(ようろう)律令の編纂(へんさん)に着手したが、完成を待たずに720年に没した。太政(だいじょう)大臣・正(しょう)一位を贈られ、佐保(さほ)山に火葬したともいう。またのち760年(天平宝字4)にはその功および皇家の外威(がいせき)を理由に、斉太公の故事に倣い、近江(おうみ)12郡に封じて淡海(たんかい)公と称された。なお生前には山階(やましな)寺の維摩会(ゆいまえ)を復興した。

[岸 俊男]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

ふじわら‐の‐ふひと【藤原不比等】
奈良初期の公卿。右大臣。父は鎌足。母は車持国子の娘。大宝律令撰修に参画、養老律令を完成。平城京遷都を主唱し、氏寺山階寺を奈良に移して興福寺と改めた。後室橘三千代の力で皇室との関係を深め、娘宮子を文武天皇夫人、光明子を聖武天皇皇后となして人臣皇后の初例を開き、藤原氏繁栄の基礎をつくった。死後、太政大臣正一位を贈られ、文忠公の諡号を賜わる。淡海公。斉明五~養老四年(六五九‐七二〇

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旺文社日本史事典 三訂版

藤原不比等
ふじわらのふひと
659〜720
奈良時代の公卿
鎌足の2男。父のあとをうけ藤原氏の地位を安定させた。大宝律令撰修に参画し,養老律令編修の中心ともなった。大納言・右大臣を歴任し,律令政治の実施に尽力した。710年平城京遷都に際し,氏寺山階寺を新都に移し興福寺と改称。娘宮子を文武天皇の夫人とし(その間に生まれたのが聖武天皇),のち妻橘三千代との間に生まれた光明子が729年聖武天皇の皇后となった。また,武智麻呂 (むちまろ) ・房前 (ふささき) ・宇合 (うまかい) ・麻呂の4子が藤原四家を分立した。死後淡海公の称を贈られた。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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