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藤原京【ふじわらきょう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

藤原京
ふじわらきょう
持統8 (694) ~和銅3 (710) 年の帝都。持統,文武元明天皇した。奈良県橿原市高殿を中心に,天香具山畝傍山耳成山の三山に囲まれた平地に営まれ,の制度を模した都城条坊の制がしかれ,中央北部に宮城をおき,12門,内裏 (だいり) ,朝堂院などがあった。平城遷都 (710) の翌年焼失。 1934年から行なわれた発掘大極殿跡が認定され,1966年からの調査により,日本最古と思われる多数の木簡が発掘された。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉

ふじわら‐きょう〔ふぢはらキヤウ〕【藤原京】
持統天皇8年(694)から元明天皇の和銅3年(710)の平城遷都までの3代16年間の都。大和三山に囲まれた、現在の橿原(かしはら)市にあった。の都を模倣した最初のもの。

出典:小学館
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防府市歴史用語集

藤原京
 日本ではじめてつくられた本格的な都です。現在の奈良県橿原市にあたります。694年に持統[じとう]天皇が藤原京に都をうつし、710年に平城京[へいじょうきょう]に都がうつるまで存続していました。

出典:ほうふWeb歴史館
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世界大百科事典 第2版

ふじわらきょう【藤原京】
694年(持統8)から710年(和銅3)までおかれた,日本古代で中国的な条坊制を採用したことの明らかな最初の本格的な都城。藤原京は《日本書紀》では〈新益京(しんやくのみやこ)〉の名で呼ばれている。これは従来の飛鳥の都がその西北に拡張した意と解せられる。京域は現在の奈良県橿原市と明日香村に位置し,大和の古道のうち,下ッ道を西京極,中ッ道を東京極,横大路を北京極,山田道を南京極とする南北約3.1km,東西約2.1kmの範囲で,そこに南北12条,左右京おのおの4坊の条坊制がしかれたとするのが通説である。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

藤原京
ふじわらきょう

694年(持統天皇8)12月から文武(もんむ)天皇を経て、元明(げんめい)天皇の710年(和銅3)3月の平城京遷都まで3代15年間の都城。その宮城である藤原宮が、畝火(うねび)・耳成(みみなし)・香具(かぐ)の大和(やまと)三山に囲まれた地にあったことは、『万葉集』巻1の「藤原宮の御井(みい)の歌」によって知られる。1934年(昭和9)から10年間にわたる日本古文化研究所による発掘調査の結果、旧鴨公(かもぎみ)村高殿(たかどの)(奈良県橿原(かしはら)市高殿町)のいわゆる大宮土壇が、藤原宮の大極殿(だいごくでん)跡であり、その前方に12堂と朝集殿を配する朝堂院が存することが明らかにされた。1966年(昭和41)には、内裏(だいり)推定地を通過する国道165号橿原バイパス建設計画に伴って奈良県教育委員会による緊急調査が行われた結果、「評」名を記した木簡が多数出土して、「郡」・「評」の用字の交替期が大宝令(たいほうりょう)施行(702)に伴うものであることが確認された。また藤原宮の範囲が確定したことによって周辺古道との密接な関係が明らかになり、藤原京の範囲や条坊制地割が推定できるようになった。すなわち、藤原京は中ツ道を東京極(ひがしきょうごく)、下ツ道を西京極、山田道を南京極、横大路を北京極とする東西約2.1キロメートル、南北約3.1キロメートルの範囲を、朱雀(すざく)大路を中心に東・西各4坊、南北12条に区画されている。1坊は900尺(約265メートル)で、小路によって4坪に分けられている。坊を区画する道路幅は、側溝心心距離で朱雀大路が約25メートル、宮に面する六条大路が21メートル、二・四・八条大路が16メートル、三条大路が9メートルで、小路は7メートルとなっている。京内は、中央北寄りに16坊の地を占める藤原宮のほか、貴族の邸宅、庶民の家屋、大官大寺、本薬師寺、紀寺(きでら)などの諸寺院や東・西市が設けられ、京職(きょうしき)が京全体を管理していた。

 藤原京の造営は、『日本書紀』持統(じとう)天皇5年(691)10月条の「使者を遣(つかわ)して新益京(しんやくのみやこ)を鎮め祭らしむ」とある記事によってそのころと考えられてきたが、近年、684年(天武天皇13)に造営が開始されたとする考えが有力となっている。前年に複都制の詔(みことのり)が出されて難波(なにわ)に都が置かれていることや、発掘で明らかにされた前期難波宮と藤原宮の構造の類似からみると、藤原京が前期難波京と密接な関係のもとに造営されたことが考えられる。藤原宮・京の中心部は国の史跡に指定されており、奈良文化財研究所(旧、奈良国立文化財研究所)によって発掘調査が継続され多くの成果をあげている。

[中尾芳治]

『『藤原宮――半世紀にわたる調査と研究』(1984・奈良国立文化財研究所飛鳥資料館)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

ふじわら‐きょう ふぢはらキャウ【藤原京】
持統天皇の持統八年(六九四)から文武天皇を経て、元明天皇が平城京に遷都する和銅三年(七一〇)までの三代一六年間の都。大和三山に囲まれ、現在の奈良県橿原市高殿町を中心とする一帯にあった。中央集権の進展に伴ってつくられ、唐の都城の制にならった最初の都。平城遷都翌年に焼失し、廃墟となったが、最近の調査研究で壮大な都であったことが明らかになった。国特別史跡。

出典:精選版 日本国語大辞典
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旺文社日本史事典 三訂版

藤原京
ふじわらきょう
7世紀末〜8世紀初,持統・文武・元明天皇3代にわたって栄えた都
唐の都城制にならった最初の都で,大和三山に囲まれ,現在の橿原 (かしはら) 市に所在した。694年の遷都から710年平城遷都まで16年間の都。711年焼失し,廃墟となった。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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