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藤原伊周【ふじわらのこれちか】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

藤原伊周
ふじわらのこれちか
[生]天延2(974).京都
[没]寛弘7(1010).1.28. 京都
平安時代中期の廷臣。父は道隆,母は高階貴子。長徳1 (995) 年父の死後,内大臣であった伊周は関白の座を道兼,次いで道長と争って敗れた。また藤原為光の娘三君をめぐる誤解から花山法皇を射かけ,大元帥法を修して一条天皇の母后詮子を詛したとの風説によって,長徳2 (996) 年大宰権師に左遷された。翌年,東三条院詮子の病による大赦で京都に召還され,のち儀同三司 (準大臣) の待遇を受けた。

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デジタル大辞泉

ふじわら‐の‐これちか〔ふぢはら‐〕【藤原伊周】
[974~1010]平安中期の公卿道隆の二男。父の死後、叔父道兼道長権勢争い従者花山法皇に矢を射かけたことなどにより大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷。のち許されて帰京し、大臣に準じる地位を与えられ、世に儀同三司と称された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

藤原伊周 ふじわらの-これちか
974-1010 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
天延2年生まれ。藤原道隆次男。母は高階貴子。正暦(しょうりゃく)2年(991)参議,5年内大臣にすすむ。父の没後,政権をめぐり叔父藤原道長と対立。長徳2年花山上皇に矢をはなったなどの罪で,大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷された。翌年召還され,のち正二位,准大臣通称は儀同三司,帥内大臣。詩が「本朝麗藻」などにはいっている。寛弘(かんこう)7年1月28日死去。37歳。

出典:講談社
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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

ふじわらのこれちか【藤原伊周】
974‐1010(天延2‐寛弘7)
平安中期の公卿。関白道隆の次男。母は高階貴子。皇后定子の兄。985年(寛和1)叙爵以後急速に昇進,994年(正暦5)内大臣となる。翌年父関白,後継を期したが成らず,叔父道長が政権を握った。996年(長徳2)弟隆家とともに花山法皇に矢を射かけるという事件を起こし,大宰権帥の名で配流。翌年入京をゆるされて,のち朝参にあずかり,准大臣の待遇をうけ儀同三司と号した。才学に富み,優れた詩作をのこしている。【黒板 伸夫】

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

藤原伊周
ふじわらのこれちか
(974―1010)

平安中期の公卿(くぎょう)。道隆(みちたか)の二男。母は高階成忠(たかしなのなりただ)の女(むすめ)貴子。994年(正暦5)内大臣、翌995年(長徳1)内覧宣旨を受けた。道隆の死後、次の政権の地位をめぐり叔父道兼(みちかね)・道長と争うこととなり、伊周としては内覧宣旨は父道隆の病の間という条件付きであったことも問題とせず、自分に内覧または摂政(せっしょう)が下るものと考えていたようである。だが、道兼に関白は下り、その後、7日関白で道兼が死ぬと道長に内覧宣旨が下り、伊周の嘆きは大きかった。翌年、為光(ためみつ)の女をめぐっての恋愛事件によって花山(かざん)法皇を誤解し、伊周・隆家の従者が花山法皇におどしの矢を射たことをはじめとして、臣下の行うべからざる大元帥法(だいげんのほう)を修しているということ、および東三条院詮子(せんし)を呪詛(じゅそ)しているとの噂(うわさ)がたち、996年(長徳2)大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷されたが、翌年召還された。1008年(寛弘5)大臣に準じて封1000戸を与えられ、儀同三司とよばれた。『栄花物語』で、伊周の召還の原因を一条(いちじょう)天皇の第一皇子敦康(あつやす)親王(母は伊周の妹定子(ていし))の誕生のためとしているのは誤りである。伊周は敦康親王の立太子に望みをかけていたが、道長の女中宮彰子(しょうし)の子敦成(あつひら)親王の出生によって希望は絶たれ、道長の勢力の拡大によって中関白家は没落した。政治家としてはさえない人物であったが、文才があり、『大鏡』に「御ざえ日本には余らせたまへる」とみえる。寛弘(かんこう)7年正月29日薨(こう)じた。

[山中 裕]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

ふじわら‐の‐これちか【藤原伊周】
平安中期の公卿。道隆の第二子。父の死後、権勢を叔父道兼・道長と争い、敗れて大宰権師に左遷される。のち許されて、大臣に準ずる地位を与えられた。世に儀同三司と称された。天延二~寛弘七年(九七四‐一〇一〇

出典:精選版 日本国語大辞典
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旺文社日本史事典 三訂版

藤原伊周
ふじわらのこれちか
973〜1010
平安中期の公卿
関白道隆の長男。内大臣。父の死後,叔父道兼・道長と関白を争って敗れ,996年弟隆家が誤って花山 (かざん) 法皇に矢を射かけた事件で大宰権帥 (だざいのごんのそち) に左遷された。のち許され儀同三司(准大臣)の待遇を受けたが,道長に抑えられ,不遇のうちに没した。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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