●藤原定子【ふじわらのていし】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
藤原定子
ふじわらのていし
[没]長保2(1000).12.16.
一条天皇の皇后。道隆の娘。永祚2 (990) 年女御となり,同年中宮。天皇の寵愛厚く,栄華をきわめた生活は,清少納言の『枕草子』によって知られる。長徳2 (996) 年兄伊周 (これちか) が花山法皇に矢を射かけた事件により出家,その後も召され,長保2 (1000) 年皇后となり,中宮彰子 (→上東門院 ) とともに一帝二后の形となった。
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デジタル大辞泉
ふじわら‐の‐ていし〔ふぢはら‐〕【藤原定子】
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世界大百科事典 第2版
ふじわらのていし【藤原定子】
平安中期の一条天皇の皇后。内大臣藤原道隆の女,母は高階貴子。990年(正暦1)1月一条天皇の内裏に入って,女御となり,10月5日中宮となる。995年(長徳1)道隆が死に,翌年兄の伊周,隆家らが花山院の輿に矢を射かけるという事件によって失脚すると,定子も出家したが,天皇の寵は変わらず,その後に敦康親王,修子内親王を生んだ。999年11月に道長の女の彰子(上東門院)が入内して女御となり,翌年2月中宮となったため,定子は皇后となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
藤原定子
ふじわらのていし
(976―1000)
一条(いちじょう)天皇の皇后、藤原道隆(みちたか)の女(むすめ)。母は高階貴子(たかしなのきし)。990年(正暦1)2月女御(にょうご)、10月中宮となる。996年(長徳2)兄伊周(これちか)、隆家が花山(かざん)法皇をおどし射(う)ちする事件によりいったん出家したが、ふたたび参内、脩子(しゅうし)内親王、敦康(あつやす)親王が生まれた。1000年(長保2)道長の女彰子(しょうし)が中宮にたったため皇后となり、一天皇に二后併立の例を開いた。この年12月15日、媄子(びし)内親王を産み、翌日亡くなった。定子皇后には清少納言が仕えており、『枕草子(まくらのそうし)』には定子の身辺について詳しく記している。だが、定子の不遇に関しては、ほとんど触れていないのが特徴である。
[山中 裕]
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精選版 日本国語大辞典
ふじわら‐の‐ていし【藤原定子】
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旺文社日本史事典 三訂版
藤原定子
ふじわらのていし
平安中期,一条天皇の皇后
道隆の長女。990年入内し,女御・中宮となった。父の死や兄伊周 (これちか) の大宰府左遷(996)にあたって一時出家したが,1000年道長の長女彰子が中宮となったため皇后となった。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus
藤原定子 ふじわらの-さだこ
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