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藤原定家(ふじわらのていか)【ふじわらのていか】

日本大百科全書(ニッポニカ)

藤原定家(ふじわらのていか)
ふじわらのていか
(1162―1241)

鎌倉初期の歌人。正式には「さだいえ」だが音読されることが多い。父は正三位(しょうさんみ)皇太后宮大夫(こうたいごうぐうのだいぶ)俊成(しゅんぜい)。母は若狭守(わかさのかみ)藤原親忠女(ちかただのむすめ)の美福門院加賀(びふくもんいんかが)。幼名は光季(みつすえ)、5歳で季光と改め、翌年定家と改名した。同母兄に成家(なりいえ)、同母姉に建春門院中納言(ちゅうなごん)(健(けん)御前)、異父兄に隆信(たかのぶ)、歌人の寂蓮(じゃくれん)は従兄(いとこ)。1166年(仁安1)叙爵(じょしゃく)、1175年(安元1)侍従を経て1211年(建暦1)従三位(じゅさんみ)、1214年(建保2)参議、1227年(安貞1)正二位、1232年(貞永1)71歳で権(ごん)中納言に至ったが、同年12月官を辞し、翌年の1233年(天福1)10月出家し、1241年(仁治2)8月20日80歳で没した。京極(きょうごく)中納言と号し、法名を明静(みょうじょう)という。18歳から74歳までの日記に『明月記(めいげつき)』がある。

[有吉 保]

初学期

歌人としての活動は、1178年(治承2)3月17歳の「別雷社歌合(わけいかずちのやしろのうたあわせ)」が最初で、「養和(ようわ)元年(1181)初学百首」「寿永(じゅえい)元年(1182)堀河(ほりかわ)院百首」のころから本格的な詠歌習作期に入ったとみられる。「堀河院百首」は、隆信、寂蓮、兼実(かねざね)らの周囲の賞賛を得た。1186年(文治2)西行(さいぎょう)の勧進(かんじん)した「二見浦(ふたみがうら)百首」、1187年「殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)百首」「閑居百首」などの百首歌を次々に詠み新風の試作を示している。1188年に奏覧された『千載(せんざい)集』には8首も入集。翌年10月ごろに西行から依頼されていた「宮河(みやがわ)歌合」の判を完成、感銘を受けた。

[有吉 保]

新風模索期

文治(ぶんじ)・建久(けんきゅう)期(1185~99)は新風模索期で、九条家歌壇のなかで達磨(だるま)歌と非難されながらいちずに精進し、「一字百首」「一句百首」「花月百首」「二夜百首」「十題百首」など多くの作品を残した。1193年(建久4)の良経(よしつね)主催の「六百番歌合」は四季・恋題各50の画期的な題詠の催しで、御子左(みこひだり)家の新風と六条藤家(ろくじょうとうけ)の旧風が対決した。定家の恋歌は新生面を打ち出している。1196年の政変で詠歌の場を失ったが、1198年「御室(おむろ)五十首」では艶美(えんび)な秀歌を残す。

[有吉 保]

新古今期

「正治(しょうじ)二年(1200)後鳥羽院(ごとばいん)初度百首」には俊成の努力によって追加で認められた。このときの斬新(ざんしん)な詠歌が院を深く感動させ内昇殿を許された。その後の歌壇が後鳥羽院主催で御子左家系の新風を主力とするものになってゆく機縁になった。院の主催する「仙洞(せんとう)十人歌合」「老若五十首歌合」「新宮(しんぐう)歌合」に参加。1201年(建仁1)7月に和歌所(どころ)を設置すると寄人(よりゅうど)になり、同11月『新古今和歌集』撰修(せんしゅう)の撰者になる。1202年末から翌年春ごろに結番された史上最大の歌合「千五百番歌合」の詠者であり、秋4・冬1の判者となり、評者としての優(すぐ)れた才能をみることができる。「建仁(けんにん)二年八月十五夜水無瀬(みなせ)殿恋十五首歌合」では、『源氏物語』や『狭衣(さごろも)物語』の世界を詠歌に導入し、「白妙(しろたへ)の袖(そで)の別れに露落ちて身にしむ色の秋風ぞ吹く」のような艶美の極致の世界を詠出する。「元久(げんきゅう)元年(1204)春日社(かすがしゃ)歌合」や1205年の「元久詩歌合(しいかあわせ)」での院の新企画に定家はすこし冷めた態度で接している。1207年(承元1)の「最勝四天王院障子和歌」では、いったん定家が選んだ歌を院が改選するなど、感情的な軋轢(あつれき)がみられる。1209年定家は源実朝(さねとも)に詠歌口伝(くでん)(『遣送本近代秀歌』)1巻を贈っている。定家は『新古今集』完成後の切継(きりつぎ)期を経て、順徳院の内裏(だいり)歌壇でも指導者的地位にあり、「建保(けんぽう)三年(1215)内裏名所百首」に詠進する。1216年自撰家集の『拾遺(しゅうい)愚草』を編纂(へんさん)している。「建保五年内裏歌合」「建保六年道助法親王(どうじょほっしんのう)家五十首和歌」にも詠進する。1219年(承久1)7月『毎月(まいげつ)抄』を衣笠家良(きぬがさいえよし)に贈るか。翌年2月内裏和歌会の定家の詠歌が院に誤解されて勅勘を被る。翌1221年5月承久(じょうきゅう)の乱が起きて7月院は隠岐(おき)に遷幸。

[有吉 保]

古典研究期

定家はこのころより古典研究に意を注ぎ、1221年3月には『顕註密勘(けんちゅうみっかん)』(『古今集』の注釈書)を著し、1223年(貞応2)には『貞応(じょうおう)本古今集』を、1236年(嘉禎2)には『嘉禎(かてい)本古今集』を書写している。前年に『源氏物語』を、1234年(天福2)には『天福(てんぷく)本伊勢(いせ)物語』を、1235年(文暦2)には『土佐日記』を書写している。これらの古典書写は、最良の本文を後世に伝えようと考えたからのようである。

 晩年の最大の業績は、第9番目の勅撰集、『新勅撰和歌集』を1235年に撰進したことで、平淡優雅で格調の高い歌風を特色とする。この年の5月には「百人一首」(原形)を選んでいる。若いころの創作物語とされる『松浦宮物語(まつらのみやものがたり)』が定家の作ならば、散文にも挑戦したことになる。定家は、王朝和歌を革新的に継承し、和歌の叙情性を復活させて新古今歌風と称される個性ある歌調を完遂させ、さらに新勅撰によって、中世全体を貫く根幹歌風の平淡美を形成させた。

[有吉 保]

『石田吉貞著『藤原定家の研究』(1957・文雅堂)』『安田章生著『藤原定家研究』増補版(1975・至文堂)』『久保田淳著『王朝の歌人 9 藤原定家』(1984・集英社)』『赤羽淑著『藤原定家全歌集全句索引』(1974・笠間書院)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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