●藤原忠通【ふじわらのただみち】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
藤原忠通
ふじわらのただみち
[没]長寛2(1164).2.19. 京都
平安時代後期の廷臣。別称,法性寺 (ほっしょうじ) 殿。忠実の長男。母は右大臣源顕房の娘師子。保安2 (1121) 年父が白河法皇との確執で辞職したあとをうけて関白となったが,これによって父と不和になった。翌年左大臣,従一位,翌々年崇徳天皇の摂政,大治3 (28) 年太政大臣,同4年関白となった。同年鳥羽上皇の院政が開始され,政界に復帰した忠実,その寵愛を受ける弟頼長と対立。永治1 (41) 年近衛天皇の摂政,久安6 (50) 年関白となったが,氏長者の地位は頼長に奪われた。保元1 (56) 年保元の乱 (→保元・平治の乱 ) 後再び氏長者となり,同3年関白の地位を嫡子基実に譲って引退。応保2 (62) 年出家,法名を円観といった。漢詩集『法性寺関白集』,和歌集『田多民治集』があり,書では法性寺流の始祖。
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デジタル大辞泉
ふじわら‐の‐ただみち〔ふぢはら‐〕【藤原忠通】
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus
藤原忠通 ふじわらの-ただみち
永長2年閏(うるう)1月29日生まれ。藤原忠実(ただざね)の長男。母は源師子。白河法皇に罷免された父にかわり,関白,摂政,太政大臣を歴任。従一位にいたる。鳥羽(とば)院政で復権した父と権力をあらそい,保元(ほうげん)の乱の一因をつくった。詩歌にすぐれ,書は法性寺(ほっしょうじ)流と称される。長寛2年2月19日死去。68歳。通称は法性寺殿。漢詩集に「法性寺関白御集」,家集に「田多民治(ただみち)集」。
【格言など】わたの原漕ぎ出でて見れば久方の雲居にまがふ沖つ白波(「小倉百人一首」)
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世界大百科事典 第2版
ふじわらのただみち【藤原忠通】
平安後期の廷臣。関白忠実の長男。母は源顕房女。法性寺(ほつしようじ)殿とよばれた。1107年(嘉承2)元服後急速に昇進し15年(永久3)には内大臣。21年(保安2)父の失脚に替わり関白・氏長者となり,翌年左大臣に転じた。23年崇徳天皇が即位すると摂政となり,28年(大治3)太政大臣,翌年天皇元服後太政大臣を辞し,ついで関白となった。同年白河法皇が没し鳥羽院政となるが,32年(長承1)に父忠実は院宣により内覧を命ぜられて政界に復帰した。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
藤原忠通
ふじわらのただみち
(1097―1164)
平安後期の公卿(くぎょう)で、能書。関白藤原忠実(ただざね)の長男。悪左府頼長(よりなが)の兄。母は村上源氏右大臣顕房(あきふさ)の女(むすめ)師子。太政(だいじょう)大臣従(じゅ)一位。法性寺(ほっしょうじ)殿。1121年(保安2)父にかわり関白・氏長者(うじのちょうじゃ)となる。以後鳥羽(とば)・崇徳(すとく)・近衛(このえ)・後白河(ごしらかわ)の4代にわたり1158年(保元3)まで摂政(せっしょう)・関白を務める。近衛天皇在位中、天皇の生母美福門院(びふくもんいん)藤原得子(とくし)の信任を得る忠通と、天皇の父鳥羽院の信任を得る忠実・頼長との間に確執が生じ、忠通・頼長はそれぞれ養女を天皇に入内(じゅだい)させて争った。忠実は忠通の氏長者を奪って頼長に与え、さらに頼長を内覧(ないらん)としたが、忠実・頼長は天皇呪詛(じゅそ)の疑いを受けて鳥羽院の信を失い、崇徳院と結んで保元(ほうげん)の乱(1156)に敗れる。忠通はふたたび氏長者となるが、やがて長子基実(もとざね)にこれを関白とともに譲り、自らは別業(別荘)法性寺に隠退、詩歌三昧(ざんまい)の余生を送った。1162年(応保2)法性寺で出家、法名円観。2年後の長寛(ちょうかん)2年2月19日没。68歳。書に秀で、法性寺流の祖となった。
[飯田悠紀子]
能書家として知られ、白河阿弥陀(あみだ)堂供養願文の清書(18歳)をはじめ、最勝寺、円勝寺、成勝寺、金剛勝院など諸寺の門額(もんがく)の揮毫(きごう)、除目(じもく)の清書、一品経結縁(いっぽんきょうけちえん)供養への参加(59歳)など、華々しい活躍を遂げる。遺墨に東京国立博物館所蔵の書状や『勧学会記(かんがくえのき)』(東京・西新井(にしあらい)大師)などが伝存する。扁平な字形と重厚で強靭(きょうじん)な筆勢を特徴とする書風は孫の後京極良経(よしつね)に受け継がれ、「法性寺流」の名で平安末から鎌倉中期に盛行した。
[神崎充晴]
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367日誕生日大事典
藤原忠通 (ふじわらのただみち)
平安時代後期の公卿
1164年没
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精選版 日本国語大辞典
ふじわら‐の‐ただみち【藤原忠通】
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旺文社日本史事典 三訂版
藤原忠通
ふじわらのただみち
平安後期の公卿
摂政・関白。通称法性寺殿。忠実の長男。氏長者の地位をめぐって父や弟頼長と不和になり,保元の乱(1156)では後白河上皇方で勝利。頼長は戦死した。晩年は法性寺に隠退。日記に『法性寺関白記』。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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