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藤原秀康【ふじわらのひでやす】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

藤原秀康
ふじわらのひでやす
[生]?
[没]承久3(1221)
鎌倉時代初期の北面の武士。河内守秀宗の子。後鳥羽上皇の側近として仕え,承久3 (1221) 年の承久の乱公家方軍事委任を受け,挙兵したが敗れ,河内自害ともいわれる。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

藤原秀康 ふじわらの-ひでやす
?-1221 鎌倉時代の武将。
秀郷(ひでさと)流藤原氏。後鳥羽(ごとば)上皇の北面,西面の武士私財殿舎を造営し,検非違使(けびいし)として治安維持に活躍,信任されて備中(びっちゅう),備後(びんご),美作(みまさか)など各地の国守を歴任した。承久(じょうきゅう)ので上皇方の総大将となり,敗れて本拠の河内(かわち)に逃走。捕らえられて,承久3年10月14日処刑された。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

ふじわらのひでやす【藤原秀康】
?‐1221(承久3)
鎌倉前期の武士。後鳥羽上皇の御所の西面(北面ともいう)の武士。院の御厩うまや)奉行を務め左衛門尉,検非違使となり,下野,上総,淡路,能登等の守にも任ぜられた。従四位下。承久の乱(1221)に際し,討幕計画の仲間に三浦胤義を勧誘して上皇が実行を決断する基をつくった。鎌倉の軍勢が京に向かうと美濃,宇治で防戦したが,敗れて京に帰った。しかし上皇が院御所の門を閉ざしたため河内国へ逃れ,のち捕らえられ処刑された(一説に自害)。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

藤原秀康
ふじわらのひでやす
(?―1221)

鎌倉初期の武士。後鳥羽院(ごとばいん)の近臣で、西面(さいめん)・北面(ほくめん)・滝口(たきぐち)の武士などを勤めた。父は河内守(かわちのかみ)秀宗(ひでむね)。母は伊賀守(いがのかみ)源光基(みつもと)の女(むすめ)。紫宸殿(ししんでん)をはじめ鳥羽殿の厩(うまや)など諸殿舎造進の功をたてて院の信任を得、備中(びっちゅう)、備後(びんご)、美作(みまさか)、越後(えちご)、若狭(わかさ)、淡路(あわじ)、伊賀(いが)、河内(かわち)、能登(のと)など諸国の国守となり、衛府の官を歴任した。1221年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱にあたっては総大将に任ぜられ、弟秀澄(ひでずみ)とともに院方の軍勢を率いて戦った。秀康は在京中の御家人(ごけにん)三浦胤義(たねよし)を味方に引き入れ、その兄三浦義村(よしむら)と連携して執権北条義時(よしとき)を討つ計画をたてた。胤義は院宣に従い畿内(きない)の兵を集め京都守護伊賀光季(みつすえ)を急襲。秀康は義村に院宣と胤義の書状を送って義時追討を促したが、義村はこれに応ぜず、幕府を支持し逆に幕軍を西上させた。秀康は尾張川、宇治川と、もろくも防戦に失敗。逃亡したが同年10月河内国讃良(さんら)(大阪府寝屋川(ねやがわ)市)で捕らえられ、六波羅(ろくはら)に送られて斬殺(ざんさつ)された。

[田中博美]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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