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藤原頼長【ふじわらのよりなが】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

藤原頼長
ふじわらのよりなが
[生]保安1(1120).京都
[没]保元1(1156).7.14. 奈良
平安時代後期の廷臣。通称,宇治左大臣,悪左府。忠実の次男。母は土佐守藤原盛実の娘。幼名は菖蒲若。誕生して半年後,父の関白忠実が突然白河法皇から内覧を停止されて宇治に隠退したため,幼少年期を宇治で過した。しかし,代って関白に任ぜられた忠通の後見で大治5 (1130) 年 11歳のとき内裏および院の昇殿を許されるや異例の昇進を重ねた。その後,鳥羽上皇の院政が始り父忠実が復権すると,頼長の立場はさらに有利となり,長承3 (34) 年権大納言,保延2 (36) 年内大臣,右近衛大将,同5年皇太子傅,左近衛大将,久安5 (49) 年左大臣となった。翌年養女多子を入内させ皇后に立て,同年父の意思によって兄に代って氏長者,翌年には内覧となった。兄関白と並び立つにいたったが,久寿2 (55) 年近衛天皇の死去に際して天皇を呪詛したとの風評で鳥羽法皇の支持を失い,内覧をとめられた。この窮地を脱するためにクーデターによる政権の奪取を企て,保元1 (56) 年忠実とともに崇徳上皇を擁して挙兵 (→保元・平治の乱 ) したがれ,逃走の途次舟中に没した。経史国書の勉学に熱心で日記『台記』を著したほか,高倉邸内の書庫に和漢万巻の書を収蔵した。

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デジタル大辞泉

ふじわら‐の‐よりなが〔ふぢはら‐〕【藤原頼長】
[1120~1156]平安後期の公卿忠実の二男。通称、字治左大臣・悪左府。博識多才で父に愛され、兄の関白忠通対立崇徳上皇と結んで保元の乱を起こして敗死。日記「台記」がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

藤原頼長 ふじわらの-よりなが
1120-1156 平安時代後期の公卿(くぎょう)。
保安(ほうあん)元年5月生まれ。藤原忠実(ただざね)の次男。母は藤原盛実の娘。内大臣をへて,久安5年(1149)左大臣。父の庇護で氏長者・内覧となり,異母兄の関白忠通(ただみち)と対立。鳥羽(とば)法皇の信任をうしなって失脚し,崇徳(すとく)上皇とむすんで兵したが,保元(ほうげん)元年7月14日敗死(保元の)。37歳。贈正一位太政大臣。厳格な人柄で悪左府の異名があり,学才でも著名。通称は宇治左大臣。日記に「台記」。

出典:講談社
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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

ふじわらのよりなが【藤原頼長】
1120‐56(保安1‐保元1)
平安後期の公卿。世に悪左府,宇治左大臣と称された。関白忠実の次男。母は忠実の家司藤原盛実の女で,いわば妾腹の子である。1130年(大治5)異母兄の摂政忠通の子として朝廷に出仕して以来,官位の昇進をかさね,36年(保延2)17歳で内大臣に昇って世人を驚かせた。またそのころから異常な熱意を学問にそそぎ,ことに儒教の経書の講究に励んで,〈日本第一の大学生(がくしよう),和漢の才に富む〉と評されるまでになった。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

ふじわらのよりなが【藤原頼長】
1120~1156 平安後期の廷臣。忠実の二男。左大臣。通称、悪左府・宇治左大臣。兄忠通と対抗し、父の後援を得て氏長者うじのちようじやとなったが、鳥羽法皇の信任を失い、崇徳上皇と結んで挙兵し(保元の乱)、敗死した。和漢の才に富み、日記「台記」がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

藤原頼長
ふじわらのよりなが
(1120―1156)
平安後期の公卿(くぎょう)。宇治(うじ)左大臣、悪左府(あくさふ)などともいう。保安(ほうあん)元年5月、関白藤原忠実(ただざね)の第2子として生まれる。母は忠実の家司(けいし)藤原盛実(もりざね)の女(むすめ)で、いわば妾腹(しょうふく)の子である。1125年(天治2)異母兄の摂政忠通(せっしょうただみち)の子となり、30年(大治5)宮中に出仕して以来累進して、36年(保延2)には17歳で内大臣に上って世人を驚かせた。またそのころから異常な熱意を学問に注ぎ、「日本第一の大学生(だいがくしょう)、和漢の才に富む」(『愚管抄(ぐかんしょう)』)と評され、さらに政務にも励み、果断な実行力によって、政治の刷新と古儀の復興に実績をあげた。
 父忠実は摂関家の勢威の回復を頼長に期待し、頼長が左大臣に進んだ翌年の1150年(久安6)、摂政を頼長に譲るよう忠通に要求したが、拒絶されたため忠通を義絶するに至った。頼長は忠通にかわって氏長者(うじのちょうじゃ)となり、さらに翌年正月には内覧(ないらん)の宣旨を受けて執政の権を握った。しかし55年(久寿2)近衛(このえ)天皇の死去を機として、鳥羽(とば)法皇の信任を失って失脚し、さらに後白河(ごしらかわ)天皇の践祚(せんそ)により皇子の践祚の望みを絶たれた崇徳(すとく)上皇と手を結び、56年(保元1)7月法皇の没後まもなく兵をあげたが、あえなく敗死した(保元(ほうげん)の乱)。ときに37歳。のち朝廷は、その霊を慰め鎮めるため粟田宮(あわたのみや)を建て、崇徳上皇とともに祀(まつ)った。その日記『台記(たいき)』は、生彩に富んだ興味ある記述によって名高い。[橋本義彦]
『橋本義彦著『藤原頼長』(1964・吉川弘文館)』

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精選版 日本国語大辞典

ふじわら‐の‐よりなが【藤原頼長】
平安後期の公卿。左大臣。通称、宇治左府・悪左府。忠実の第二子。母は盛実の娘。学を好み、ひろく諸学に通じた。父の寵を得て兄忠通とその地位を争い、仁平元年(一一五一)内覧の宣旨を受け執政となった。のち近衛天皇の死をめぐって鳥羽法皇の信任を失い、崇徳上皇と結んで保元の乱を起こしたが、敗れて奈良に逃げる途中、矢傷が悪化して死んだ。日記に「台記」がある。保安元~保元元年(一一二〇‐五六

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旺文社日本史事典 三訂版

藤原頼長
ふじわらのよりなが
1120〜56
平安後期の公卿
左大臣。忠実の2男。博識多才で,父の寵愛を得て兄の忠通から氏長者の地位を奪った。のち鳥羽法皇の信任を失ったため,1156年保元の乱をおこしたが敗死。日記に『台記』。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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