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蘇我馬子【そがのうまこ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

蘇我馬子
そがのうまこ
[生]?
[没]推古34(626).5.20. 大和
古代の中央豪族。稲目の子。蝦夷 (えみし) の父。敏達天皇のとき大臣となり,大連 (おおむらじ) 物部守屋と朝政をとった。崇仏可否をめぐって守屋らと対立し,諸皇子諸臣を味方に引入れて,用明2 (587) 年排仏派を殺し朝廷における地位を確立した。その後,自身の擁立した崇峻天皇を殺して推古天皇を立て,聖徳太子とともに朝政をとった。推古4 (596) 年法興寺を建立して子の徳善を寺司とした。また太子とともに『天皇記』『国記』などを録した。家が飛鳥川のほとりにあり庭中の小池小島があったことから島大臣 (しまのおおおみ) ともいわれた。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉

そが‐の‐うまこ【蘇我馬子】
[?~626]飛鳥時代の豪族稲目の子。排仏派の物部守屋を滅ぼし、崇峻天皇を暗殺して実権を握った。日本最初の史書といわれる「天皇記」「国記」を撰録

出典:小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

蘇我馬子 そがの-うまこ
?-626 6-7世紀前半の豪族。
蘇我稲目の子。敏達(びだつ)天皇のときに大臣(おおおみ)となる。仏教興隆をはかり,用明天皇2年(587)反対派の物部守屋(もののべの-もりや)と穴穂部(あなほべの)皇子をほろぼし,崇峻(すしゅん)天皇をたてる。崇峻天皇5年(592)東漢駒(やまとのあやの-こま)に崇峻天皇を暗殺させ,(めい)にあたる推古天皇を即位させ,厩戸(うまやどの)皇子(聖徳太子)を皇太子とした。法興寺(飛鳥(あすか)寺)を造営。聖徳太子と協調して政治をおこない,「天皇記」「国記」を編修させた。推古天皇34年5月20日死去。墓所は奈良県明日香村の桃原墓。通称は嶋(島)大臣。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

そがのうまこ【蘇我馬子】
?‐626(推古34)
飛鳥時代の大臣(おおおみ)。蘇我稲目の子,毛人(蝦夷)の父。名は馬古,汙麻古,有明子とも記され,嶋大臣とよばれた。敏達朝に大臣となり,このあと用明,崇峻,推古といずれも蘇我系の天皇をたて,つづけてその大臣をつとめた。就任の当初から大連(おおむらじ)物部守屋らの勢力と対立したが,その反対をおしきって,570年(欽明31)に北陸に来着した高句麗使を572年(敏達1)に朝廷に迎え入れ,高句麗外交を開始した。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

そがのうまこ【蘇我馬子】
?~626 敏達・用明・崇峻・推古四朝の大臣。蘇我稲目の子。対立する排仏派の物部守屋を滅ぼし、崇峻天皇を殺害。法興寺を造立して仏教興隆に尽力、「天皇記」「国記」の編纂にも従事した。

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

蘇我馬子
そがのうまこ
(?―626)

大和(やまと)国家、飛鳥(あすか)時代の大臣。蘇我臣稲目(おみいなめ)の子。毛人(えみし)(蝦夷)の父。馬古、汗麻古、有明子とも記され、嶋大臣(しまのおおおみ)と称された。敏達(びだつ)・用明(ようめい)・崇峻(すしゅん)・推古(すいこ)朝の大臣で、父稲目の達成を受け継ぎ推し進めて蘇我氏の繁栄の頂点にたった。娘の刀自古郎女(とじこのいらつめ)を聖徳太子の妃に、法提(ほて)郎女を舒明(じょめい)天皇の夫人にたてた。大臣として最初の手腕を発揮したのは、高句麗(こうくり)外交の開始である。すなわち、570年(欽明天皇31)に北陸に来着した高句麗使を、572年(敏達天皇1)に朝廷に迎え、高句麗外交を始めた。しかし、これには大連物部守屋(おおむらじもののべのもりや)ら百済(くだら)外交のみに固執する勢力の反対が強く、これにかねてからの仏教受容問題や皇位継承問題も加わって、ついに587年(用明天皇2)、馬子は物部・中臣(なかとみ)氏らを討滅した。この年に没した用明天皇も、次の崇峻天皇も、馬子が擁立した蘇我系天皇であったが、崇峻天皇と意見が対立し始めると、馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じてこれを暗殺させた。

 このあと馬子は、592年(崇峻天皇5)から着工した飛鳥寺(法興寺)の造営を進めて完成させ、仏教興隆の方針を進めた。605年(推古天皇13)から厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)の上宮王家が斑鳩(いかるが)宮に移ってのちも、馬子は飛鳥にあって政治を主導した。この間、新羅(しらぎ)遠征軍の派遣計画は失敗したが、二度にわたる遣隋(けんずい)使の派遣もあり、外交の必要からも難波(なにわ)津を重視した。晩年には、厩戸皇子と諮って『天皇記』『国記』、諸氏の本記を編纂(へんさん)させた。馬子を葬った飛鳥の桃原墓は、いわゆる石舞台古墳であるとされている。

[門脇禎二]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

そが‐の‐うまこ【蘇我馬子】
蘇我稲目の子。父についで敏達・用明・崇峻・推古四朝の大臣となり、姻戚関係と仏教を利用して政敵物部氏を滅ぼし、さらにみずからたてた崇峻天皇を殺すなど専横をきわめた。聖徳太子摂政時代は太子に協力して、日本最初の国史といわれる「天皇記」「国記」などの撰録を行なった。推古天皇三四年(六二六)没。

出典:精選版 日本国語大辞典
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旺文社日本史事典 三訂版

蘇我馬子
そがのうまこ
?〜626
6〜7世紀前期の大和政権の大臣
稲目の子。父のあとをうけ大臣 (おおおみ) となった。仏法を信仰し,排仏派の政敵物部守屋を587年滅ぼし専権をふるった。のちみずから擁立した崇峻天皇を殺害し,妹堅塩媛 (きたしひめ) の生んだ推古天皇を擁立,摂政の聖徳太子とともに政治を指導した。氏寺として法興寺を建立し,『天皇記』『国記』などの国史を編纂した。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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