●袁紹【えんしょう】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
袁紹
えんしょう
Yuan Shao; Yüan Shao
[没]建安7(202)
中国,後漢末の群雄の一人。汝南 (河南省) の人。字は本初。袁紹の家は高祖父のときから4世引続いて三公の位にあり,「その門生故吏は天下に満つ」といわれた名家であった。袁紹は冀州を中心にその勢力を強化し,初め董卓と対立して,これを長安に追い,のち次第に曹操と対立するようになったが,建安5 (200) 年官渡の戦いで曹操に大敗して,再び勢力を盛返すことができないままで死んだ。
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デジタル大辞泉
えん‐しょう〔ヱンセウ〕【袁紹】
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世界大百科事典 第2版
えんしょう【袁紹 Yuán Shào】
中国,後漢末の群雄の一人。字は本初。4代にわたって三公を輩出した汝南汝陽(河南省商水県)の名族の出身。191年(初平2),韓馥(かんふく)から冀州牧の地位を奪い,鄴(ぎよう)(河南省臨漳県)を本拠として黄河北域に覇を唱えた。一時は反董卓勢力の盟主となったが,やがて黄河南域に勢力を扶植した曹操と対立するにいたった。200年の官渡(河南省中牟県)の戦において曹操に敗れ,またその死後,息子の袁譚・袁尚兄弟のあいだに争いが生じたため,華北の覇権は曹操に帰した。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
袁紹
えんしょう
(?―202)
中国、後漢(ごかん)末期の群雄の一人。字(あざな)は本初。汝南(じょなん)汝陽(河南省商水県)の人。袁氏は4代にわたり三公を輩出した名門で、国内には袁氏の恩顧を受けた門生や故吏(こり)があふれていた。霊帝(れいてい)の死後、宦官(かんがん)を排除しようとした外戚の何進(かしん)が、逆に謀殺されると、従弟(いとこ)の袁術とともに宦官2000人を皆殺しにした。董卓(とうたく)が献帝を擁して実権を奪うと、渤海(ぼっかい)太守に遠ざけられた。山東の豪族を組織し、董卓征伐の盟主となり、董卓を首都洛陽(らくよう)から長安に逃走させた。帝室の一族で幽州(ゆうしゅう)牧の劉虞(りゅうぐ)を皇帝にしようとしたが、劉虞に拒否された。袁紹は、河北に割拠していた公孫瓚(こうそんさん)を滅ぼして勢力を拡大し、山東、河北の4州を領し、烏丸(うがん)の精兵を収めて有力な軍閥となった。さらに献帝を迎え入れて力を増した曹操(そうそう)と対抗したが、河南省中牟(ちゅうぼう)県にある黄河の渡し場官渡(かんと)の戦いで大敗した(200)。袁紹の死後、袁尚が継いだが、内紛のため袁氏はほどなく滅亡した。
[上田早苗]
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精選版 日本国語大辞典
えん‐しょう ヱンセウ【袁紹】
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