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【ひょう】

日本大百科全書(ニッポニカ)

評(ひょう)
ひょう
7世紀後半の地方行政区画。「こおり」とも読む。『日本書紀』には、646年(大化2)の改新詔によってが地方行政区画として定められたとある。しかし、金石文、系図などの古代史料には、この時期の地方行政区画として評がみえ、このことをめぐっていわゆる郡評論争がおこった。郡評論争は、律令(りつりょう)制の地方行政組織がどのように形成されたかにとどまらず、律令制度の出発点とされてきた「大化改新詔」の信頼性、さらにはこの時期の地方行政区画をすべて郡とする『日本書紀』の史料としての性格の問題をも提起した点で、戦後の日本古代史の論争のなかでももっとも重要なものの一つである。論争では、郡評併用説、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)令施行(689)によって評から郡へ移行したとする説、大宝(たいほう)令施行(701)によるとする説が唱えられたが、近年藤原宮址から「己亥年十月上挟阿波」をはじめとする国評里を表記した木簡(もっかん)が多数出土し、己亥年は699年で大宝令施行直前であることから、7世紀後半の地方行政区画は評であって、大宝令施行によって郡に移行したと考えられている。評は朝鮮に起源をもち、高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)に例がみられる。朝鮮の評は軍事的性格をもつ行政単位とされている。日本においても同様の性格をもったと考えられ、孝徳(こうとく)期(645~654)以降、国造(くにのみやつこ)をはじめとする在地首長層を立評人として、彼らを評督、助督あるいは評造とすることによって成立した。評の成立の時期については、孝徳期に一括して成立したとする説と、天智(てんじ)期(662~671)、さらに浄御原令施行にかけて段階的に成立したとする説とがある。大宝令における郡への移行は、軍団の別置による軍事的性格の喪失などの地方行政機構としての整備とされているが、用字の転換の背景には朝鮮起源の評にかえて中国の郡を導入しようとする当時の貴族の国際意識があり、『日本書紀』が評を一括して郡に書き改めたのもそうした意識の反映と考えられる。[大町 健]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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