●谷文晁【たに ぶんちょう】
美術人名辞典
谷文晁
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デジタル大辞泉
たに‐ぶんちょう〔‐ブンテウ〕【谷文晁】
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus
谷文晁 たに-ぶんちょう
宝暦13年9月9日生まれ。谷麓谷(ろつこく)の長男。加藤文麗,渡辺玄対らに師事。狩野(かのう)派,土佐派,南宗画,北宗画,西洋画などの手法をとりいれて独自の画風を創出,江戸文人画壇の重鎮となる。田安徳川家につかえ,松平定信編「集古十種」の挿絵もかく。渡辺崋山(かざん)ら門人多数。天保(てんぽう)11年12月14日死去。78歳。江戸出身。通称は文五郎。別号に写山楼,画学斎など。作品に「公余探勝(こうよたんしょう)図巻」「木村蒹葭堂(けんかどう)像」など。
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世界大百科事典 第2版
たにぶんちょう【谷文晁】
江戸後期の画家。江戸下谷根岸に生まれた。通称文五郎。写山楼,画学斎などの号がある。父は田安家の家臣で,詩人としても名のあった谷麓谷。10歳のころから狩野派の加藤文麗に絵を学ぶが,19歳のころ,南蘋(なんぴん)派の渡辺玄対に師事した。1788年(天明8)田安徳川家に出仕して五人扶持となり,同年長崎に遊学して清人張秋谷に文人画を学んだ。92年(寛政4)には白河侯松平定信付となり,翌年3月から4月にかけ定信の江戸湾岸巡視に随従して《公余探勝図》を制作した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
谷文晁
たにぶんちょう
[没]天保11(1840).12.14. 江戸
江戸時代後期の南画家。田安家の家臣谷麓谷の子。名は文五郎,文伍。号は文朝,文晁,写山楼ほか。初め狩野派の加藤文麗,南蘋派の渡辺玄対などに絵を学ぶ。宋,元,明,清の絵画や西洋画の研究のうえに土佐派,琳派,円山四条派などの画法をも摂取して幅広い画業を示し,当時江戸第一の大家とされた。松平定信の保護を受け『集古十種』 (1800) の編集や『公余探勝図巻』 (1793) の制作にあたった。画風は南北合法の「寛政文晁」から,粗荒な「烏文晁」へと変化。門下に渡辺崋山,立原杏所,高久靄 厓 (たかくあいがい) がいる。著書に画伝『本朝画纂』,主要作品に『山水図』 (93,東京国立博物館) ,『木村蒹葭堂像』 (1802,大阪府) ,『彦山真景図』 (08,同) ,『松島図』 (26) などがある。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
谷文晁
たにぶんちょう
(1763―1840)
江戸後期の南画家。名は正安。通称は文五郎。字(あざな)、号ともに文晁といい、別に写山楼(しゃざんろう)、画学斎(ががくさい)などと号した。田安家の家臣で詩人としても著名な麓谷(ろっこく)を父として江戸に生まれた。画(え)は初め狩野(かのう)派の加藤文麗(ぶんれい)に、ついで長崎派の渡辺玄対(げんたい)に学び、鈴木芙蓉(ふよう)にも就いた。大坂で釧雲泉(くしろうんせん)より南画の法を教授され、さらに北宗画に洋風画を加味した北山寒巌(きたやまかんがん)や円山(まるやま)派の渡辺南岳(なんがく)の影響も受けるなど、卓抜した技術で諸派を融合させた画風により一家をなした。なかでも『山水図』(東京国立博物館)のように北宗画を主に南宗画を折衷した山水に特色があり、また各地を旅行した際の写生を基に『彦山(ひこさん)真景図』や『鴻台(こうのだい)真景図』などの真景図や『名山図譜』を制作、『木村蒹葭堂(けんかどう)像』のような異色の肖像画も残している。1788年(天明8)画をもって田安家に仕官し、92年(寛政4)には松平定信(さだのぶ)に認められてその近習(きんじゅ)となり、定信の伊豆・相模(さがみ)の海岸防備の視察に随行して、西洋画の陰影法、遠近法を用いた『公余探勝(こうよたんしょう)図巻』を描き、また『集古十種』の編纂(へんさん)にも従って挿図を描いている。弟の島田元旦(げんたん)も画をもって鳥取藩に仕え、妻の幹々(かんかん)や妹秋香(しゅうこう)も画家として知られている。門人も渡辺崋山(かざん)、立原杏所(たちはらきょうしょ)、高久靄崖(たかくあいがい)らの俊才に恵まれ、当時の江戸画壇の大御所として君臨した。文晁を中心とする画派は関西以西の南画とは画風を異にし、通常、関東南画として区別されている。著書に『文晁画談』『本朝画纂(ほんちょうがさん)』などがある。
[星野 鈴]
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367日誕生日大事典
谷文晁 (たにぶんちょう)
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精選版 日本国語大辞典
たに‐ぶんちょう【谷文晁】
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旺文社日本史事典 三訂版
谷文晁
たにぶんちょう
江戸後期の画家。江戸文人画の祖
江戸の人。初め狩野派を学んだが,内外の諸派を研究し新画風を開いた。松平定信の保護をうけ,図録『集古十種』の挿絵を描いた。門下に田能村竹田 (たのむらちくでん) ・渡辺崋山らがいる。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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