●豊後節【ぶんごぶし】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
豊後節
ぶんごぶし
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デジタル大辞泉
ぶんご‐ぶし【▽豊後節】
2 1およびそれから分派した常磐津(ときわず)節・富本節・清元節・新内節・薗八(そのはち)節・繁太夫(しげたゆう)節などの総称。豊後浄瑠璃。豊後諸流。
3 2のうち、特に常磐津節・富本節・清元節の三派。豊後三派。豊後三流。
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世界大百科事典 第2版
ぶんごぶし【豊後節】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
豊後節
ぶんごぶし
浄瑠璃(じょうるり)の流派名。宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)(?―1740)が語り出した浄瑠璃。豊後掾は京都の都太夫一中(みやこだゆういっちゅう)の門弟で都国太夫半中(くにたゆうはんちゅう)といったが、1721年(享保6)ごろ独立して宮古路国太夫半中を名のり、当時その曲風は半中節、国太夫節とよばれてもてはやされた。半中はのちに宮古路豊後と改名し、34年名古屋へ赴き、同年中に江戸へも進出するに及んで、両地では豊後節という名で好評を博した。したがって、狭義の豊後節は、名古屋と江戸におけるこの豊後掾の浄瑠璃をさす。豊後節は一中節に文弥節を加えたような芸風で、きわめて扇情的であったと伝えられる。ことにこのころ心中沙汰(ざた)、情死などが多発し、この男女間の風儀の乱れはすべて豊後節によると思われたため、江戸幕府により1739年(元文4)禁止にも等しい過酷な弾圧が加えられた。43年(寛保3)あたりからしだいに緩和され、江戸に残った門弟によって文字(もじ)太夫の常磐津(ときわず)節、その社中から独立した小文字(こもじ)太夫の富本(とみもと)節、さらに分派独立した延寿(えんじゅ)太夫の清元(きよもと)節が生まれる。これをも包含して豊後節とよぶこともあるが、現今では通常この三つを豊後三流とよんでいる。また同じ門弟の加賀太夫から改名した富士松薩摩掾(ふじまつさつまのじょう)、さらに分流した鶴賀若狭掾(つるがわかさのじょう)や豊島国太夫らの諸流を総称した新内節があり、また上方(かみがた)で育ちそれぞれ一派をなした豊美繁(とよみしげ)太夫、宮古路薗八(そのはち)とその門弟から分かれた春富士正伝(はるふじしょうでん)や宮薗鸞鳳軒(みやぞのらんぽうけん)などの諸流は国太夫節の名で総称された。なお、以上の流派をすべて包括して豊後系浄瑠璃とも呼称している。
[林喜代弘・守谷幸則]
『町田佳聲著『ラジオ邦楽の鑑賞』(1950・日本放送出版協会)』
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精選版 日本国語大辞典
ぶんご‐ぶし【豊後節】
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旺文社日本史事典 三訂版
豊後節
ぶんごぶし
宝永(1704〜11)ころ一中節の流祖都太夫一中の門人宮古路豊後掾 (みやこじぶんごのじよう) (?〜1740)が始め,享保年間(1716〜36)江戸に下った。内容は世話物中心で,濃艶な曲調,扇情的な語り方のため禁止されたが,人や名を変えて分派が出た。常磐津・清元・富本を豊後三派と呼ぶ。写実的な義太夫節に対し歌謡的である。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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