@niftyトップ

辞書、事典、用語解説などを検索できる無料サービスです。

豊臣秀次【とよとみ ひでつぐ】

美術人名辞典

豊臣秀次
安土・桃山時代大名三好吉房の子、母は豊臣秀吉瑞龍院日秀。初め次兵衛、のち孫七郎と称す。宮部継潤に養われ、ついで三好康長養子となる。秀吉の長男鶴松の死後、その養子となり京都聚楽第に住する。秀頼誕生後秀吉と不和になり、また謀反風評が立ち、事態収拾に失敗して官位を剥奪される。文禄4年(1595)歿、28才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

とよとみ‐ひでつぐ【豊臣秀次】
[1568~1595]安土桃山時代武将秀吉(おい)。天正19年(1591)秀吉の養子となり、ついで関白となった。秀頼誕生後は秀吉のを失い、高野山追放されて、自殺ぜられた。秀吉との関係悪化に伴い、凶暴な行為が多かったので、殺生関白とよばれた。

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

豊臣秀次 とよとみ-ひでつぐ
1568-1595 織豊時代の武将。
永禄(えいろく)11年生まれ。三好吉房の子。母は豊臣秀吉の姉日秀尼。天正(てんしょう)13年羽柴姓を名のり,近江(おうみ)(滋賀県)八幡城主43万石となる。19年秀吉の長男鶴松の夭折で養子となり,関白職もゆずられる。文禄(ぶんろく)2年秀吉の次男秀頼の誕生後秀吉と不和になり,4年高野山へ追放され,同年7月15日切腹。28歳。初名は信吉。通称は孫七郎。
【格言など】治(をさま)れる御代(みよ)ぞと呼(よば)ふ松風に民の草葉の猶(なほ)靡(なび)くなり(「太閤記」)

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

とよとみひでつぐ【豊臣秀次】
1568‐95(永禄11‐文禄4)
安土桃山時代の武将。父は豊臣秀吉の近臣三好吉房,母は秀吉の実姉日秀。1585年(天正13)秀吉から近江で自分遣(つかい)20万石,宿老の当知行分23万石,計43万石を宛行われ,八幡山に築城した。この間,秀吉に従って各地に転戦し,90年後北条氏滅亡ののち尾張一国と北伊勢5郡を与えられ清須城に入った。さらに奥州に出陣し,検地九戸(くのへ)政実の乱平定にあたった。秀吉の実子鶴松の死により91年末に関白となり,聚楽第で政務をとった。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

大辞林 第三版

とよとみひでつぐ【豊臣秀次】
1568~1595 安土桃山時代の武将。母は秀吉の姉日秀。賤しずヶ岳の戦い、四国・小田原攻略で戦功をたて、91年秀吉の養子となった。のち関白。秀頼誕生によって高野山に追放、自害を命ぜられた。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

豊臣秀次
とよとみひでつぐ
[生]永禄11(1568)
[没]文禄4(1595).7.15. 高野山
安土桃山時代の武将。父は三好吉房 (一路) ,母は秀吉の姉日秀 (瑞龍院尼) 。実子のない秀吉に用いられ,各地を転戦。小牧・長久手の戦い徳川家康に敗れ秀吉の戒めを受けた。天正 13 (1585) 年紀伊,四国平定の功により近江 43万石を与えられ,同 18年小田原征伐,奥羽平定の功によって尾張,伊勢を合せ 100万石を領するにいたった。官位も昇進し,同 19年秀吉の実子鶴松が夭折したのち秀吉の養子となり,関白に進む。文禄2 (93) 年秀吉の次男秀頼の誕生後,秀吉との間が冷却し,高野山へ追放,自殺を命じられ,妻妾子女ともども殺された。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

豊臣秀次
とよとみひでつぐ
(1568―1595)
安土(あづち)桃山時代の武将。豊臣秀吉の甥(おい)。通称孫七郎。三好一路(いちろ)の子、母は秀吉の姉瑞竜院日秀(ずいりゅういんにっしゅう)。1583年(天正11)伊勢(いせ)攻略・賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで戦功をたてたが、翌年の長久手(ながくて)の戦いでは徳川家康の軍に大敗し、秀吉から厳しく叱責(しっせき)された。85年、紀州征伐、四国征伐の活躍により羽柴(はしば)氏を称することを許され、近江(おうみ)で43万石を与えられ八幡(はちまん)に居城を築く。87年島津征伐に出陣、90年の小田原の陣では主将となり相模(さがみ)山中城を攻め、ついで陸奥(むつ)に入って九戸(くのへ)の乱を鎮定。論功行賞により織田信雄(おだのぶかつ)の旧領尾張(おわり)・北伊勢、つごう100万石を与えられ清洲(きよす)に居城を移した。85年秀吉が関白となったとき、秀次も右近衛(うこのえ)中将となり、翌年参議、翌々年には権中納言(ごんちゅうなごん)となり、秀吉の後継者と目され官位も急速に昇進した。秀吉の愛児鶴丸が夭死(ようし)した3か月後の91年11月には秀吉の養嗣子(ようしし)となり、翌月4日内大臣、同28日には関白となり、聚楽第(じゅらくだい)を譲られた。翌年2月、聚楽第に後陽成(ごようぜい)天皇の行幸を仰ぎ一代の盛儀を極めた。
 1593年(文禄2)8月、秀吉が愛妾(あいしょう)淀殿(よどどの)所生の次男秀頼(ひでより)を得てから、継嗣問題をめぐる思惑から疎遠をきたし、粗暴で不謹慎な性行も目だつようになり、秀次謀反の噂(うわさ)が取りざたされるに至った。95年7月、秀次より野心のない旨の誓紙が出されたが、秀吉は秀次の行動や世間の噂を利用し、関白職を奪って高野山(こうやさん)に追放して切腹させ、8月その一族を京都三条河原で斬殺(ざんさつ)した。秀次は勇を好むとともに、学問・文芸を好み、これを奨励した点は文芸史上特筆される。[橋本政宣]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

精選版 日本国語大辞典

とよとみ‐ひでつぐ【豊臣秀次】
安土桃山時代の武将。秀吉の甥。賤ケ岳の戦い、四国・小田原征伐などで戦功をあげた。天正一九年(一五九一)秀吉の長男鶴松が死に、養子に迎えられて関白となったが、文祿二年(一五九三)の秀頼誕生後寵愛を失い、謀反の疑いで高野山へ追われ、ついで自殺させられた。秀吉との関係悪化に伴い凶暴なふるまいが多く殺生関白と呼ばれた。永祿一一~文祿四年(一五六八‐九五

出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

旺文社日本史事典 三訂版

豊臣秀次
とよとみひでつぐ
1568〜95
安土桃山時代の武将
秀吉の甥。父は三好吉房,母は秀吉の姉。賤ケ岳の戦い・四国平定に功あり,近江(滋賀県)43万石を領した。1591年秀吉の長男鶴松の死後,その養子となり関白となった。'93年秀吉に秀頼が生まれて不和となり,秀吉の命により高野山に追放され,切腹。妻妾・子弟30余名も京都三条河原で殺された。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
執筆者一覧(50音順)
金澤利明 竹内秀一 藤野雅己 牧内利之 真中幹夫
 
Copyright Obunsha Co.,Ltd. All Rights Reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

豊臣秀次」の用語解説はコトバンクが提供しています。

豊臣秀次の関連情報

他サービスで検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.

アット・ニフティトップページへ アット・ニフティ会員に登録

ウェブサイトの利用について | 個人情報保護ポリシー
©NIFTY Corporation