●赤松氏【あかまつうじ】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
赤松氏
あかまつうじ
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世界大百科事典 第2版
あかまつうじ【赤松氏】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
赤松氏
あかまつうじ
播磨国(はりまのくに)(兵庫県)佐用(さよう)郡佐用庄(さようのしょう)を本貫とする在地領主。室町時代播磨国守護。鎌倉初期則景が九条家領佐用庄地頭職を得て以来、西播磨を中心に族的結合を拡大し、同末期には摂津国(大阪府・兵庫県の各一部)沿岸部にも荘園(しょうえん)諸職を得て基盤を確保した。元弘(げんこう)の乱のとき、則村(のりむら)が後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に味方し一躍名声をあげる。1336年(延元1・建武3)足利尊氏(あしかがたかうじ)が建武(けんむ)政権に背くと、則村は嫡子範資(のりすけ)らとともにその与党になり、播磨、摂津の守護職に任ぜられる。そして則祐(そくゆう)が備前(びぜん)、明徳(めいとく)の乱後義則(よしのり)が美作国(みまさかのくに)守護職を獲得し、また義則、満祐(みつすけ)は侍所(さむらいどころ)所司になり、有力な守護大名に成長する。しかし、満祐は1441年(嘉吉1)将軍義教(よしのり)を弑(しい)し(嘉吉(かきつ)の乱)、追討されて播磨国城山城(木山城)(きのやまじょう)に自害する。その領国は山名氏の領するところとなった。1456年(康正2)赤松氏一族および譜代(ふだい)の家臣らが後南朝から神璽(しんじ)を奪還した功によって、幕府は政則(まさのり)(満祐の弟義雅の孫)の出仕を許した。政則は応仁(おうにん)の乱中に旧領国の支配権を回復したが、その実権はしだいに浦上(うらがみ)氏の手に移った。1520年(永正17)守護赤松義村(よしむら)は浦上村宗(むらむね)に追われ、その領国は浦上氏の支配下に置かれた。赤松氏は代々雪村友梅(せっそんゆうばい)とその系統の禅僧に深く帰依し、播磨に法雲寺、宝林寺など禅寺を創建して外護した。
[岸田裕之]
『高坂好著『赤松円心・満祐』(1970・吉川弘文館)』
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旺文社日本史事典 三訂版
赤松氏
あかまつし
村上源氏。則村 (のりむら) は元弘の変で後醍醐 (ごだいご) 天皇に味方し,建武新政府に参加したが,恩賞に不満をもち足利尊氏に属した。初め播磨守護に任じられ,のち備前・美作 (みまさか) (岡山県)の守護を兼ね,足利方の有力な守護大名となり,四職家の一つに数えられた。1441年満祐 (みつすけ) が将軍足利義教 (よしのり) を殺した嘉吉の乱で幕府軍と戦って敗死し,没落。その後一族の政則が再興したが,義祐のとき家臣浦上氏に領国を追われ,1600年関ケ原の戦いで則房が戦死して一族は離散した。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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