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赤松満祐【あかまつみつすけ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

赤松満祐
あかまつみつすけ
[生]文中2=応安6(1373)/弘和1=永徳1(1381)
[没]嘉吉1(1441).9.10. 播磨,城山
室町時代中期の武将。播磨の守護大名義則の子。左京大夫。大膳大夫。応永 34 (1427) 年父義則が死去した跡を継いで播磨,備前,美作の守護となったが,同族の赤松持貞 (満祐の祖父則祐の兄弟貞範の孫) が将軍義持の寵を受け,義持は播磨を御料国 (将軍の直轄領) としてその代官職を持貞に預けようとした。満祐は怒って都の自邸を焼いて本国播磨に帰り,坂本城に拠って幕府に叛した。義持は,山名時煕,一色義貫らに命じて満祐を討たせようとしたが,管領畠山満家以下の諸将は満祐に同情的であり,そのうえ持貞と義持の側室の一人との密通が露見して持貞は自害させられ,満祐は満家のとりなしで許された。同年 12月満祐は上洛,義持に謁して謝罪し,剃髪して性具と称した。翌正長1 (28) 年1月義持が急逝して弟義教が将軍になり,満祐は8月侍所頭人に任じられたが,この年播磨にも大規模な土一揆が発生し (→正長の一揆 ) ,満祐は下国して鎮定した。義教は,赤松貞村 (持貞の甥) の娘が側室となったところから貞村を重んじるようになり,これに満祐の父義則勲功の地を与えようとしたこと,義教に専制のふるまいが多かったことなどから,義教と満祐との対立が次第に激しくなり,満祐は永享 12 (40) 年から出仕しなくなった。満祐は結城合戦戦勝の祝宴に託して,嘉吉1 (41) 年6月京都の自邸に義教を招き,殺害した。次いで自邸を焼いて播磨に帰り,坂本城に拠ったが幕府追討軍に敗れ,さらに城山城も落城,嫡男教康を脱出させて自殺 (→嘉吉の乱 ) 。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉

あかまつ‐みつすけ【赤松満祐】
[1381~1441]室町中期の武将則村曽孫。播磨(はりま)・備前美作(みまさか)の守護嘉吉(かきつ)の乱将軍足利義教(あしかがよしのり)を殺して領国播磨に帰り追討軍に攻められて自害

出典:小学館
監修:松村明
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

赤松満祐 あかまつ-みつすけ
1373-1441 南北朝-室町時代の武将。
応安6=文中2年生まれ。赤松義則の長男。将軍足利義持(よしもち)・義教(よしのり)による赤松氏の勢力削減を目的とした所領取り上げ策に反発し,嘉吉(かきつ)元年6月義教を暗殺した(嘉吉の乱)。のち幕府軍の追討をうけ,播磨(はりま)(兵庫県)城山(きのやま)城で同年9月10日自害。69歳。法名は性具。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

あかまつみつすけ【赤松満祐】
1373‐1441(文中2∥応安6‐嘉吉1)
室町前期の武将。一説に1381年(弘和1∥永徳1)生れともいう。義則の嫡男。1427年(応永34)播磨・備前・美作の守護であった父義則が死去すると,将軍足利義持は播磨国を幕府領国にしようとするが,結局満祐がこれらを相承する。28年(正長1)足利義教が将軍に決するや,正長の土一揆が京都を襲撃するが,侍所所司であった満祐は奮戦これを退けた。このほか満祐は山城守護ともなり,幕府の中心人物となった。しかし義教は一族の赤松貞村を寵愛して満祐を疎んじ,ちまたでは満祐の領国のうち播磨・美作が召し上げられるとうわさされた。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

あかまつみつすけ【赤松満祐】
1381~1441 室町時代の武将。義則の子。播磨・備前・美作みまさかの守護。1441年(嘉吉1)将軍専制政治をはかる足利義教よしのりを暗殺したが、追討軍に攻められて自刃。 → 嘉吉かきつの乱

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

赤松満祐
あかまつみつすけ
(1373―1441)
室町中期の播磨(はりま)、備前(びぜん)、美作(みまさか)国守護。義則(よしのり)の嫡子。1427年(応永34)義則死没後その跡職を継ぐ。侍所(さむらいどころ)所司になり、山城(やましろ)国(京都府)守護をも兼ね、中央政界における政治的地位はきわめて高かった。一方、室町幕府の将軍はしだいに専制化の傾向を強めるが、それは6代将軍義教(よしのり)の代に至り頂点に達し、有力守護大名のなかには家督を取り上げられたり、所領を削られるものなどが相次いだ。赤松氏に関しても4代将軍義持(よしもち)は義則の死没後播磨国を満祐から取り上げて一族の持貞(もちさだ)に与えようとし、また将軍義教は1440年(永享12)義雅(よしまさ)(満祐の弟)の所領を没収して一族の貞村に分与するなど赤松氏惣領(そうりょう)家を冷遇した。このような情勢のなかで満祐は1441年(嘉吉1)6月24日将軍義教を京都二条邸に招き宴中に殺害し、播磨に下って幕府に背いた(嘉吉(かきつ)の乱)。しかし赤松氏追討をめぐる幕府内の態勢は整わず、8月に入りやっと山名(やまな)氏を主力とした追討軍の行動が開始された。山名軍は9月に入って播磨国の政治的要衝書写山麓(しょしゃさんろく)の坂本城を、さらに同10日には守護所越部庄(こしべのしょう)城(木)山(きのやま)城を攻略し、満祐、義雅らは自害した。満祐の嫡子教康(のりやす)は伊勢(いせ)国(三重県)に逃れたが殺害され、赤松氏惣領家は没落した。
 満祐の守護在職は十数年で、その領国支配は父義則の代に整備された支配機構をさらに整備するなかで進展した。すなわち、義則は1392年(元中9・明徳3)播磨国国衙(こくが)機構をその支配下に収めたが、かつての国衙小目代(しょうもくだい)であり守護被官の小河(おごう)氏は上位守護代、納所(なっしょ)に任ぜられ、段銭(たんせん)、公役などの譴責(けんせき)、徴収など多くの重要な権限を分掌した。なお、下位守護代には宇野氏、納所(2人制)に上原氏、国の検断奉行(ぶぎょう)に浦上(うらがみ)氏が任ぜられている。諡号(しごう)は慈照院殿相全性具。[岸田裕之]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

あかまつ‐みつすけ【赤松満祐】
室町前期の武将。則村の曾孫。播磨、備前、美作の守護。侍所所司。嘉吉元年(一四四一)将軍足利義教を暗殺。同年追討軍に攻められ、自刃した。法名性具。永徳元=弘和元~嘉吉元年(一三八一‐一四四一

出典:精選版 日本国語大辞典
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旺文社日本史事典 三訂版

赤松満祐
あかまつみつすけ
1381〜1441
室町中期の武将。播磨守護
則村 (のりむら) の曽孫。将軍足利義教 (よしのり) が満祐の所領を奪って一族の赤松貞村に与えたりしたので,1441年義教を京都の自邸に招いて殺し,播磨に帰った。しかし山名持豊らの幕府軍に攻められ自殺した。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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