@niftyトップ

辞書、事典、用語解説などを検索できる無料サービスです。

越後屋【えちごや】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

越後屋
えちごや
現在の三越前身。江戸時代の豪商。その基を開いた三井氏の先祖は,近江の佐々木氏の家臣と伝えられ,伊勢に移り,高俊の代 (元和年間〈1615~24〉) に松坂で酒造と質屋の営業を始め,のち父高安が越後守を称していたところから「越後殿酒屋」と呼ばれた。高俊の4男高利は延宝1 (73) 年,江戸本町1丁目 14 (のち駿河町) に呉服店を,京都に仕入れ店を開き,ついに大坂にも支店を開き,貞享4 (87) 年には幕府呉服所となった。しかも両替商をも兼業し,3都を結ぶ営業網によって発展し,元禄4 (91) 年以降幕府の金銀御為替用達もつとめ,大坂の鴻池 (→鴻池家 ) と並ぶ豪商となった。その発展の原因は,一つに「現金掛け値なし」「店前売り」という新しい販売方法で,従来の武家相手の掛売りを,店頭に商品を並べる町人相手の現金売買に改め,1日の売上げ 1000両と称される繁盛ぶりとなった。また地方に製糸機業,綿織業が興ると,桐生,福島,八王子などの各地に支店や買宿を設け,直買または前渡金による強力な問屋支配によって集荷し,典型的な全国的規模の商業を営んだ。幕末期になると,在地商人の台頭,諸藩の専売制実施などにより廉価仕入れが困難になり,三井家はその経営の重点を両替,金融に向けるようになり,呉服店経営の比重は減り,明治5 (1872) 年,三井家から分離して店名も三越と改めた。その後,1896年三井呉服店,1904年には株式組織となり,以来三越百貨店として現在にいたる。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉

えちご‐や〔ヱチゴ‐〕【越後屋】
江戸日本橋駿河町にあった三井家経営の呉服店。延宝元年(1673)三井高利が江戸本町に開店したのに始まり、現金掛け値なし商法により発展。現在の三越の前身。

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉プラス

越後屋
古典落語の演目のひとつ。原題は「越後屋角兵衛」といい、略して「角兵衛」と呼ばれたが、「山岡角兵衛」との混同を避けるため「越後屋」となった。「角兵衛の婚礼」「小返り」とも。初代三遊亭圓遊が得意とした。オチは地口オチ。主な登場人物は、職人

出典:小学館
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版

えちごや【越後屋】
江戸時代の豪商三井家が呉服店等を経営するについて使用した屋号,またそれを冠した店々の総称。初代三井高利祖父が越後守を名のった武士で,高利の父が始めた質・酒・みそ店が〈越後殿酒屋〉と呼ばれたことから,時の松坂領主古田重治より勧奨され屋号としたと伝えられる。長兄らの進出に次いで,1673年(延宝1)以降高利自身が三都を中心に呉服店等を開いて大いに成功し,その子孫も経営を拡大・維持したため,三井越後屋の名は広まった。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

大辞林 第三版

えちごや【越後屋】
江戸日本橋駿河町にあった江戸一の呉服店。今の三越百貨店の前身。 -といへる呉服所に尋ねよりて/浮世草子・一代女 4

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

越後屋
えちごや
豪商三井家の家祖高利(たかとし)が1673年(延宝1)江戸日本橋本町一丁目(東京都中央区)に開いた呉服店。現在の三越(みつこし)百貨店の前身。高利の母殊法(しゅうほう)が伊勢(いせ)松坂(三重県松阪市)に質屋・酒屋を営み、祖父高安(たかやす)が越後守(えちごのかみ)と称したので、「越後殿の酒屋」とよばれたことにちなみ、江戸の呉服屋を「越後屋」と名づけた。最初、店の規模は間口9尺奥行11間。長男高平(たかひら)と次男高富(たかとみ)が店務にあたり、店員は手代・子供・下男あわせて10人足らずであった。1683年(天和3)駿河(するが)町(現三井本館の所在地)に移り、それまで武家屋敷相手の掛売りが主だったのを「現銀安売無掛値(かけねなし)」という新しい商法で、町人・庶民目当てに切り替えてから大いに繁栄、江戸時代最大の呉服商となった。その繁盛ぶりは多くの錦絵、西鶴(さいかく)の『日本永代蔵(えいたいぐら)』にも描かれた。京都に仕入店(しいれだな)を置き(高利と高平があたる)、江戸には本店(ほんだな)(呉服店)のほか綿店(わただな)(のち向店(むこうだな)と改称、現三越の所在地)、芝口(しばぐち)店を設け、1691年(元禄4)には大坂にも支店を開き、生産地には広く集荷網を張って全国的な商業を営んだ。他方、幕府払方御納戸(おなんど)呉服御用達(ごようたし)を勤め、両替店をも兼営、1691年大坂御金蔵銀御為替(おかねぐらぎんおかわせ)御用達の地位を得て、最大の御用商人となり、呉服店も繁盛した。1713年(正徳3)の本店(呉服店)店員数は、京都手代44、子供51、下男9の計104、江戸手代106、子供44、下男35の計185、大坂手代34、子供22、下男5の計61合計350人に達した。幕末・明治維新期は呉服業が不振に陥り、時の大蔵大輔(たいふ)井上馨(かおる)、参議大隈重信(おおくましげのぶ)、大蔵大丞(だいじょう)渋沢栄一らの勧告もあって、三井家事業の中心を金融に置くことになったので、1872年(明治5)、越後屋は三井大元方(おおもとかた)(家政・営業の統轄機関)を離れて連家(れんけ)(5軒)の経営に移され、商標をと定めた。1893年商法施行に際し、合名会社三井呉服店と改称、さらに1904年(明治37)三井家から離れて株式会社三越呉服店を設立。1928年(昭和3)株式会社三越と改めて現在に至る。[三井礼子]
『星野靖之助著『三井百年』(1968・鹿島研究所出版) ▽三友新聞社編『三越三百年の商法』(1972・評言社) ▽高橋潤二郎著『三越三百年の経営戦略』(1972・サンケイ新聞出版局)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

精選版 日本国語大辞典

えちご‐や ヱチゴ‥【越後屋】
[一] 三井高利が延宝元年(一六七三)江戸本町一丁目(東京都中央区日本橋)に開いた呉服店。祖父高安の越後守にちなんで越後屋と名づけた。薄利多売、現金掛け値なしの新商法が当たり、のち両替屋を兼営。京・大坂にも店舗を持った。明治五年(一八七二)三井家から分離し、のち店名も三越呉服店と改称、日本の百貨店の先駆となる。昭和三年(一九二八)三越となり今日に及ぶ。
[二] 東京都江東区深川門前仲町にあった京御菓子屋。越後屋播磨(はりま)が正式名。

出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

旺文社日本史事典 三訂版

越後屋
えちごや
江戸時代の豪商三井が経営した呉服店
1673年三井高利が江戸日本橋に開店。呉服の切売りと「現金掛値なし」の新商法で発展し,のち両替商を兼営,幕府の金銀御為替御用達をつとめ,屈指の商業資本家に成長した。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
執筆者一覧(50音順)
金澤利明 竹内秀一 藤野雅己 牧内利之 真中幹夫
 
Copyright Obunsha Co.,Ltd. All Rights Reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

越後屋」の用語解説はコトバンクが提供しています。

越後屋の関連情報

他サービスで検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.

アット・ニフティトップページへ アット・ニフティ会員に登録

ウェブサイトの利用について | 個人情報保護ポリシー
©NIFTY Corporation