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趙佗【ちょうだ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

趙佗
ちょうだ
Zhao Tuo; Chao T`o
[生]?
[没]建元4(前137)
中国,前漢時代の南越国初代の王 (在位前 206~137?) 。武帝と号す。真定 (河北省) の人。のとき南海郡竜川 (広東省) の県令,秦,交代期に南海都尉となった。やがて独立して桂林,象両郡を合せて南越を建て,前漢の高祖陸賈 (りくか) を使者とし独立を認めた。次の呂后のとき佗は長沙 (湖南省) に侵入したが,文帝が立つと再び陸賈が使者として南越におもむいたので,佗は帝号を用いないこと,毎年入貢することなどを約した。景帝の時代を終るまでこの状態は続いたが,彼は南越国内では依然帝号を称していた。建元4 (前 137) 年佗の孫の胡が立ち,南越はやがて滅亡した。

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世界大百科事典 第2版

ちょうた【趙佗 Zhào Tuó】
?‐前137
南越(なんえつ)国初代の王。尉佗(いた)ともいう。真定(河北省正定県)の人。秦の始皇帝が揚越(今の広東省)を攻略し桂林,南海,象郡の3郡を置いた際,南海の竜川県の県令に任じられたが,秦末の混乱に乗じて桂林,象郡を併せて自立し,南越国の武王と号し番禺(ばんぐう)(今の広州市)に都した。漢が興ると,高祖は陸賈(りくか)を遣わし,趙佗を南越王に封じて和親を結んだ。呂のとき離反して漢の辺郡を侵したが,文帝が即位して再び陸賈を派遣するにおよんでようやく帰順した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

趙佗
ちょうた
(?―前137)

中国、南越(なんえつ)国の創立者。真定(河北省正定県)の出身。秦(しん)の始皇帝の嶺南(れいなん)経略ののち、南海郡の竜川県令となったが、始皇帝の死後任囂(じんごう)にかわり南海郡尉となった。秦が滅んだ(前207)のちは、自立して隣の桂林(けいりん)・象郡を討ち、南越国を建て、武王と名のり、番禺(ばんぐう)(広東(カントン)省番禺県)を都とした。やがて紀元前202年、即位した漢の高祖劉邦(りゅうほう)はこれを討つ力がなく、使を遣わして趙佗を南越王に封じ和親を図った。ところが呂后(りょこう)のとき、漢が南越への鉄器の輸出を禁じたことから、趙佗は漢に抗し、自ら皇帝を称し、長沙(ちょうさ)郡など漢の南辺を侵し、また隣の閩越(びんえつ)や西甌駱(せいおうらく)をも服属させた。しかし、文帝が前180年に即位し、ふたたび使を遣わして和を図らせてからは、趙佗は表面上漢に臣事したが、国内では引き続き皇帝を称した。

[藤原利一郎]

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精選版 日本国語大辞典

ちょう‐た テウ‥【趙佗】
中国、秦末の群雄の一人。尉佗とも。真定(河北省正定県)の人。秦末の内乱に乗じて、番禺(広東省広州市)に都し、南越国の武王と自称した。後に漢の高祖に南越王に封じられた。前一三七年没。

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