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足利持氏【あしかがもちうじ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

足利持氏
あしかがもちうじ
[生]応永5(1398)
[没]永享11(1439).2.10. 鎌倉
室町時代前期の武将。第4代鎌倉公方 (1409~39) 。左兵衛督。満兼の子。父の死により家督を継ぎ,応永 20 (1413) 年には陸奥伊達氏の反乱を鎮圧した。同 23年前管領上杉氏憲 (禅秀) が,持氏の叔父満隆と結び,京都の将軍義持の弟義嗣と通じて起した反乱 (→上杉禅秀の乱 ) を幕府援助を得てしずめた。これより持氏は,氏憲与党の征伐と称し,しきりに関東の諸氏を攻め,幕府の不興を買ったが,謝罪して,同 31年幕府と和を結んだ。正長1 (28) 年後嗣を定めずに義持が没したあと,僧籍にあったその弟義教が還俗して将軍になると,将軍への宿望を果せなかった持氏は,京都に攻め上ろうとしたが,関東管領上杉憲実に諫止され,事なきを得た。しかしその不満は,永享5 (33) 年の甲斐武田氏追討,翌6年鶴岡八幡宮への血書の願文奉納,翌7年陸奥稲村御所足利満貞征伐,翌8年幕府直轄の信濃への出兵として現れた。そして翌9年には終始幕府との調停に努めてきた憲実をも討たんとし,同 10年8月憲実が領国上野 (こうずけ) に籠居すると,幕府はついに持氏討伐に踏切った。幕府軍と憲実軍に攻められた持氏は,11月金沢称名寺に入って出家 (公卿補任は 10月) ,次いで鎌倉永安寺に移り,翌 11年2月同寺で自害。 (→永享の乱 )  

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デジタル大辞泉

あしかが‐もちうじ〔‐もちうぢ〕【足利持氏】
[1398~1439]室町前期の武将鎌倉公方(くぼう)。永享10年(1438)関東管領上杉憲実(うえすぎのりざね)対立。幕府軍と戦って敗れ、鎌倉で自刃。→永享の乱

出典:小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

足利持氏 あしかが-もちうじ
1398-1439 室町時代の武将。
応永5年生まれ。足利満兼長男。応永16年4代鎌倉公方(くぼう)をつぐ。上杉禅秀では幕府の援軍をえたが,その後鎌倉府の権力強化をはかって幕府と対立。足利義教(よしのり)が6代将軍となると対決姿勢をつよめる。永享の乱で幕府軍に敗れ,永享11年2月10日自害した。42歳。幼名は幸王丸。法名は道継。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

あしかがもちうじ【足利持氏】
1398‐1439(応永5‐永享11)
室町中期の武将。足利満兼の子。鎌倉公方(くぼう)4代。幼名は幸王丸。1409年(応永16)満兼の死を受けて鎌倉公方となる。翌年元服して将軍義持の偏諱(へんき)を得て持氏と称す。16年前関東管領上杉禅秀の乱にあい一時鎌倉を逃れたが,禅秀の動きに不安を感じた幕府の援助を得て反乱を鎮め再び鎌倉に戻った。その後,禅秀の残党の弾圧に奔走し,公方権力の専制化を強めた。しかし,それに対する豪族層や中小武士層の反発も高まり,その支配の強化も容易ではなかった。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

あしかがもちうじ【足利持氏】
1398~1439 室町時代の武将。四代鎌倉公方。1416年、上杉禅秀の乱を平定。のち、将軍義教よしのりと対立、38年(永享10)関東管領上杉憲実のりざねを討とうとして幕府に攻められ、翌年自刃した(永享の乱)。

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

足利持氏
あしかがもちうじ
(1398―1439)
室町中期の武将。鎌倉公方(くぼう)第3代足利満兼(みつかね)の子。幼名幸王丸(こうおうまる)。1409年(応永16)父満兼の後を受けて家督を継ぎ、12歳で第4代鎌倉公方となった。翌1410年元服し、将軍足利義持(よしもち)の一字を与えられて持氏と名のった。1416年上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱では、いったん鎌倉を逃れて駿河(するが)の今川範政(のりまさ)を頼ったが、まもなく幕府の支援を受けて反撃に転じ、翌1417年正月、乱を鎮圧した。その後、独自の支配権を東国に確立しようとして関東諸将の討伐にしばしば出兵したため、幕府との対立をしだいに深めていった。1428年(正長1)に足利義教(よしのり)が将軍となると幕府への対決姿勢をさらに強め、両者の調停を図ろうとした関東管領(かんれい)上杉憲実(のりざね)は持氏に疎(うと)んじられた。1438年(永享10)長子賢王丸(けんおうまる)の元服に際して将軍の一字をもらう慣例を無視し、それをいさめた憲実を追討しようとした。将軍義教はこれを持氏討伐の絶好の機会ととらえ、諸将に命じて憲実を支援させ、持氏追討の兵を関東に下した。関東の諸将のなかにも持氏に背くものが続出、やがて敗北を悟った持氏は金沢(かねさわ)称名寺(しょうみょうじ)で剃髪(ていはつ)して道継(どうけい)と号し、ついで鎌倉の永安寺(ようあんじ)に入り謹慎の意を表した。しかし将軍義教はこれを許さず、翌1439年(永享11)2月10日、持氏は幕命を受けた上杉憲実らに永安寺を包囲され42歳で自害。この事件を永享(えいきょう)の乱という。法名は長春院楊山道継。[田代 脩]

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精選版 日本国語大辞典

あしかが‐もちうじ【足利持氏】
室町前期の武将。第四代関東公方。満兼の子。上杉禅秀の乱を平定。永享一〇年(一四三八)関東管領上杉憲実を討とうとして幕府軍に敗れ、同一一年、鎌倉永安寺で自殺(永享の乱)。応永五~永享一一年(一三九八‐一四三九

出典:精選版 日本国語大辞典
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旺文社日本史事典 三訂版

足利持氏
あしかがもちうじ
1398〜1439
室町中期の鎌倉公方
満兼の子。1417年上杉禅秀の乱平定後関東に勢力をはり,京都の幕府と対立,'28年前将軍足利義持が死に,義教 (よしのり) が後継者になると,対立は激化した。ついに'38年永享の乱をおこし,管領上杉憲実 (のりざね) を助ける幕府軍に敗れ,翌年鎌倉永安寺で自殺した。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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