@niftyトップ

辞書、事典、用語解説などを検索できる無料サービスです。

足利義昭【あしかが よしあき】

美術人名辞典

足利義昭
室町幕府十五代将軍。十二代将軍義晴の二男。興福寺一乗院に入り覚慶と称したが、の十三代将軍義輝が松永久秀らに殺害されたため還俗織田信長と結んで幕府を再興した。やがて信長反目武田信玄浅井長政朝倉義景らと兵したが敗れ、室町幕府は崩壊した。その後毛利氏をたよって幕府再興をはかるが失敗、出家して山城槙島に隠棲、豊臣秀吉から一万石を与えられた。慶長2年(1597)歿、59才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

あしかが‐よしあき【足利義昭】
[1537~1597]室町幕府第15代将軍。在職1568~1573。初め奈良一乗院に入り覚慶と称したが、還俗(げんぞく)して義秋、のち義昭と改めた。織田信長に擁立されて将軍となったが、のち、信長を討とうとして京都を追われ、室町幕府は滅亡した。諸国を流浪した後、大坂死去

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

足利義昭 あしかが-よしあき
1537-1597 室町幕府15代将軍。在職1568-73。
天文(てんぶん)6年11月3日生まれ。足利義晴(よしはる)の次男。僧籍にはいり覚慶と号したが,兄義輝(よしてる)が殺されたのち,還俗(げんぞく)。幕府再興をこころざし,織田信長とむすび永禄(えいろく)11年将軍となる。のち信長と反目し,武田氏,朝倉氏らとむすんで信長打倒をくわだてるが失敗,天正(てんしょう)元年室町幕府は崩壊した。信長の死後出家して昌山道休と称し,文禄(ぶんろく)の役では肥前名護屋に従軍。慶長2年8月28日死去。61歳。前名は義秋。法号は霊陽院。
【格言など】今度織田(信長)の事,天命遁(のが)れ難きに依り自滅候(本能寺の変をきき,島津義久へかいた書簡)

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

足利義昭 あしかが-ぎしょう
1405?-1441 室町時代の僧。
応永12年?生まれ。足利義満の子。真言宗大覚寺(だいかくじ)門跡(もんぜき)。大僧正,准三宮(じゅさんぐう)となる。大和(奈良県)の越智維道(おち-これみち)の乱を機に,永享9年異母兄の将軍足利義教(よしのり)に対抗し吉野で挙兵。敗れて九州にのがれたが,嘉吉(かきつ)元年3月13日日向(ひゅうが)(宮崎県)で島津忠国(ただくに)に殺された。37歳?

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

あしかがよしあき【足利義昭】
1537‐97(天文6‐慶長2)
室町幕府15代将軍。足利義晴の次男。母は近衛尚通の女。尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶と称した。1565年(永禄8)兄義輝が三好三人衆弑逆(しぎやく)されたとき閉されたが,細川藤孝(幽斎)らの活躍で一乗院を脱出,近江の和田惟政を頼り,のち矢島に移って義秋と名のり,従五位下左馬頭に任して将軍となる意志を明らかにし足利義栄に対立した。そして若狭を経て越前の朝倉義景のもとに赴き,68年元服して義昭と改名した。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

大辞林 第三版

あしかがよしあき【足利義昭】
1537~1597 室町幕府一五代将軍(在職1568~1573)。義晴の子。1568年、織田信長に擁されて将軍となる。のち不和を生じ信長を討とうとしたが、73年京都を追われ、幕府は滅亡した。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

足利義昭
あしかがよしあき
[生]天文6(1537).11.3.
[没]慶長2(1597).8.28. 大坂
室町幕府最後の 15代将軍 (在職 1568~73) 。義晴の次男。義輝の弟。母は近衛稙家 (たねいえ) の娘。天文 11 (1542) 年 11月,稙家の義子となって興福寺一乗院に入室,覚慶と称し,永禄5 (62) 年,一乗院門跡となった。同8年,松永久秀が将軍義輝を殺したとき,覚慶も捕えられたが,細川藤孝らに救われて近江に逃れ,和田惟政を頼って,ここから上杉輝虎 (謙信) らに足利家再興の援助を依頼した。翌9年2月還俗して義秋と称し,やがて若狭を経て越前に移り,同 11年4月一乗谷の朝倉義景の館で元服,義昭と改名した。同年7月,近江を経て美濃立政寺に入り,9月織田信長に奉じられて入京,10月 18日征夷大将軍,参議,左近衛権中将となり,従四位下に叙せられて室町幕府を再興した。しかし,信長と次第に不和となり,元亀4 (73) 年2月浅井長政,朝倉義景,武田信玄らの力をかりて信長を討とうとし,近江に挙兵した。4月勅命によっていったん信長と和し,7月再度山城槇島城に挙兵したが,信長に攻められ,子義尋を質として降伏,河内若江城に移った。こうして室町幕府は滅んだ。義昭は若江から和泉堺,さらに紀伊由良に移り,しきりに帰京をはかったが成功せず,天正4 (76) 年,由良から備後鞆に移り,毛利氏に拠って幕府回復をはかった。毛利氏は,本願寺,上杉,武田氏らと結んで信長にあたり,信長は毛利氏を攻撃したが,同 10年明智光秀に殺され (→本能寺の変 ) ,義昭は信長の後継者豊臣秀吉によって帰京を認められ同 15年帰京した。翌年1月,出家して昌山道休といい,1万石の知行を与えられ,文禄1 (92) 年朝鮮出兵の際は,秀吉に従って名護屋に出陣した。慶長2 (97) 年はれものを病んで数日病臥ののち死去。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

足利義昭
あしかがよしあき
(1537―1597)
室町幕府第15代将軍。義晴(よしはる)の子。母は前関白近衛尚通(このえひさみち)の女(むすめ)。天文(てんぶん)6年11月3日京都に生まれる。初め興福寺一乗院に入り、のち同門跡(もんぜき)となり覚慶(かくけい)と号した。1565年(永禄8)5月兄将軍義輝(よしてる)が暗殺され、監視を受けるが脱出。供衆(ともしゅう)近江(おうみ)和田惟政(わだこれまさ)の館に到着、各方面に幕府復興の協力を要請。1566年2月還俗(げんぞく)し義秋(よしあき)と称した。のち若狭(わかさ)を経て越前(えちぜん)の朝倉義景(あさくらよしかげ)に頼る。1568年4月元服し義昭と改名。7月織田信長に迎えられ、9月京都に進み、10月征夷(せいい)大将軍、参議、左近衛権中将(さこんえごんのちゅうじょう)となる。1569年毛利元就(もうりもとなり)と大友宗麟(おおともそうりん)、上杉輝虎(うえすぎてるとら)(謙信(けんしん))と武田信玄(たけだしんげん)との講和を図るなど政治的に動きだした。1570年(元亀1)信長が呈出した条書で政治行動を規制され、その時点で信玄と盟約。1572年信長に対する包囲網が完成し、翌1573年(天正1)浅井長政(あさいながまさ)、朝倉義景らは敗死するが挙兵。信長のため将軍の座を追われ、室町幕府は滅びた。のち紀伊由良(ゆら)の興国(こうこく)寺に移座。幕府の再興に一生を賭(か)ける。1576年備後鞆(びんごとも)(福山市)に移り、毛利氏に頼る。毛利氏は信長と断交し、石山本願寺も挙兵。のち信長と義昭を頂点とする勢力とが戦い、戦略を展開する。上杉謙信の死と信長の鉄船の出現で、本願寺は敗退。信長の死後は、羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉に帰京を要請。秀吉は義昭の養子となり、征夷大将軍を望むが拒否される。1588年(天正16)すでに帰京し、出家して昌山。のち三后に准ぜられた。文禄(ぶんろく)の役(えき)に名護屋(なごや)本営(佐賀県唐津市)に従軍。慶長(けいちょう)2年8月28日大坂で死去。法号は霊陽院昌山道休。京都相国寺霊陽院に葬られる。[奥野高広]
『奥野高広著『足利義昭』(1960・吉川弘文館)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

367日誕生日大事典

足利義昭 (あしかがよしあき)
生年月日:1537年11月3日
安土桃山時代の室町幕府の第15代将軍
1597年没

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
(C) Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

精選版 日本国語大辞典

あしかが‐よしあき【足利義昭】
室町幕府最後の一五代将軍。義晴の子。初名義秋。はじめ覚慶と号し、奈良一乗院の門主。兄義輝が暗殺された時、近江にのがれた。還俗し織田信長に扶持されて、永祿一一年(一五六八)入洛して将軍となり、幕府を再興したが、天正元年(一五七三)信長に京都を追われた。流浪の末同一三年出家。准三后(じゅさんごう)。天文六~慶長二年(一五三七‐九七

出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

旺文社日本史事典 三訂版

足利義昭
あしかがよしあき
1537〜97
室町幕府15代将軍(在職1568〜73)
義晴の子。義輝の弟。初め奈良一乗院門跡 (もんぜき) で覚慶と称した。1565年義輝が松永久秀のために殺されると還俗 (げんぞく) して義秋と称し,のち義昭と改名。'68年織田信長に奉じられて入京し,将軍となる。その後信長の隆盛とともに不和となり,毛利・朝倉・浅井・武田・石山本願寺などの反信長勢力を頼ったが,'73年京都を追われ室町幕府は滅んだ。のち豊臣秀吉の保護をうけ,1万石を給された。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
執筆者一覧(50音順)
金澤利明 竹内秀一 藤野雅己 牧内利之 真中幹夫
 
Copyright Obunsha Co.,Ltd. All Rights Reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

足利義昭」の用語解説はコトバンクが提供しています。

足利義昭の関連情報

他サービスで検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.

アット・ニフティトップページへ アット・ニフティ会員に登録

ウェブサイトの利用について | 個人情報保護ポリシー
©NIFTY Corporation