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足利義詮【あしかが よしあきら】

美術人名辞典

足利義詮
室町幕府二代将軍足利尊氏三男。幼名は千寿王。元弘の乱で尊氏が西上した際は人質として鎌倉にあり、幕府滅亡後、細川和氏らの援助で関東を管領した。叔父直義の失脚により入京し政務を執る。そののち直義・直冬や南朝と京都の争奪戦を繰り返すが、尊氏歿後征夷大将軍任官執事細川清氏失脚ののちは管領斯波氏を登用し、政権を安定させ、大内弘世・山名時氏を帰服させて中国を統一した。晩年は義満に家督を譲り、管領細川頼之補佐を託した。正平22年(1367)歿、38才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

あしかが‐よしあきら【足利義詮】
[1330~1367]室町幕府第2代将軍。在職1359~1367。尊氏の子。尊氏の名代として、新田義貞の鎌倉攻めに参加。尊氏の死後、正平13=延文3年12月(1359年1月)将軍となった。

出典:小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

足利義詮 あしかが-よしあきら
1330-1367 室町幕府2代将軍。在職1359*-67。
元徳2年6月18日生まれ。足利尊氏の子。母は北条登子(とうし)。新田義貞(よしさだ)の鎌倉攻めに参加,鎌倉幕府崩壊後も鎌倉にとどまる。のち叔父足利直義(ただよし)にかわり京都で幕府の政務をとる。異母兄足利直冬(ただふゆ)軍や南朝軍と京都争奪戦をくりかえすなか,父の死により延文3=正平(しょうへい)13年将軍職をつぎ,南朝軍を撃退して政権を安定させた。貞治(じょうじ)6=正平22年12月7日死去。38歳。幼名は千寿王丸。法号は宝篋院(ほうきょういん)。

出典:講談社
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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

あしかがよしあきら【足利義詮】
1330‐67(元徳2‐正平22∥貞治6)
室町幕府2代将軍。尊氏の三男。1335年(建武2)尊氏,叔父直義が建武政府を攻め上京したのちも,鎌倉に残り東国を統治する。49年(正平4∥貞和5)尊氏の執事高師直と直義が対立すると,尊氏は義詮を召喚し直義の代行をさせたが,この対立は尊氏と直義の抗争に発展した。52年(正平7∥文和1)尊氏・義詮は南朝に降るが,直義を討つやこれと決別,直義の養子直冬や南朝と京都の争奪戦を繰り返した。58年(正平13∥延文3)尊氏がし義詮が征夷大将軍となると,仁木義長や細川清氏が離反したが,62年(正平17∥貞治1)斯波義将を執事に任命,翌年山陽の大内弘世や山陰の山名時氏が帰参し安定期を迎える。

出典:株式会社平凡社
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

足利義詮
あしかがよしあきら
[生]元徳2(1330).6.18.
[没]正平22=貞治6(1367).12.7. 京都
室町幕府2代将軍 (在職 1358~67) 。尊氏の子。母は赤橋登子。坊門殿という。元弘3=正慶2 (1333) 年尊氏西上の際,人質として鎌倉におかれた。尊氏が後醍醐天皇側に寝返ると下野 (しもつけ) に走り,次いで新田義貞の鎌倉攻めに加わり,北条氏を滅ぼして鎌倉に入った。建武2 (35) 年尊氏が建武政府にそむき,南北朝の動乱が始ると,義詮は足利軍の関東における軍事統率者として鎌倉を守った。興国5=康永3 (44) 年左馬頭。正平4=貞和5 (49) 年尊氏,直義兄弟の不和により,尊氏の命を受けて上京,父の政務を助けた。正平 13=延文3 (58) 年将軍となり,正平 18=貞治2 (63) 年権大納言。正平 22=貞治6 (67) 年正二位。南朝方とのやむことなき戦いのなかに死んだ。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

足利義詮
あしかがよしあきら
(1330―1367)

室町幕府第2代将軍。幼名千寿王。尊氏(たかうじ)の子。1333年(元弘3・正慶2)新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻略に一族を率いて参加。鎌倉幕府滅亡後義詮は鎌倉にとどまり、下向した足利直義(ただよし)とともに東国経営に携わる。建武政権崩壊後、北畠顕家(きたばたけあきいえ)によって一時鎌倉を追われたが回復し、関東を足利方の拠点とすることに成功する。1349年(正平4・貞和5)尊氏、高師直(こうのもろなお)と直義との間に不和が生じたとき上洛(じょうらく)し、直義にかわって政務をとった。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)中は畿内(きない)各地を転戦し、直義方、南朝軍と京都争奪戦を展開した。1358年(正平13・延文3)尊氏が死去すると、その後を継いで征夷(せいい)大将軍となり室町幕府の基礎を固めた。1367年12月7日病没した。法号は宝篋院道惟瑞山(ほうきょういんどういずいざん)。贈左大臣従(じゅ)一位。

[伊藤喜良]

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367日誕生日大事典

足利義詮 (あしかがよしあきら)
生年月日:1330年6月18日
南北朝時代の室町幕府第2代の将軍
1367年没

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
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精選版 日本国語大辞典

あしかが‐よしあきら【足利義詮】
室町幕府第二代将軍。尊氏の子。坊門殿と称せられた。新田義貞とともに鎌倉を攻めて北条氏を滅ぼし、以後東国の平定に尽力。延文三=正平一三年(一三五八)一二月、将軍に補せられた。元徳二~貞治六=正平二二年(一三三〇‐六七

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旺文社日本史事典 三訂版

足利義詮
あしかがよしあきら
1330〜67
室町幕府2代将軍(在職1358〜67)
尊氏の嫡子。義満の父。1333年新田義貞の鎌倉攻めに父の名代として加わり,北条氏を滅ぼした。尊氏の幕府開設後も関東の主として鎌倉にあり,尊氏の死後 '58年将軍となった。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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