@niftyトップ

辞書、事典、用語解説などを検索できる無料サービスです。

近衛基煕【このえもとひろ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

近衛基煕
このえもとひろ
[生]慶安1(1648).3.6.
[没]享保7(1722).9.14.
江戸時代の公卿。号は応円満。法名は悠山。は尚嗣。後水尾天皇の皇女昭子内親王元禄3 (1690) 年関白,同 16年関白を辞した。宝永6 (1709) 年 10月太政大臣,同年 12月辞任。和歌絵画に秀でていた。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

近衛基煕 このえ-もとひろ
1648-1722 江戸時代前期-中期の公卿(くぎょう)。
慶安元年3月6日生まれ。近衛尚嗣(ひさつぐ)の子。母は昭子内親王(実母は家女房瑶林院)。明暦元年従三位。元禄(げんろく)3年(1690)関白,氏長者となり,宝永6年(1709)太政大臣,同年辞任。従一位にいたる。後水尾(ごみずのお)天皇の影響をうけ,和歌,連歌,絵画などにすぐれた。享保7年9月4日死去。75歳。一字名は悠,。号は応円満院。日記に「基煕公記」,著作に「一簣(いっき)」など。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

日本大百科全書(ニッポニカ)

近衛基煕
このえもとひろ
(1648―1722)

江戸前・中期の摂家(せっけ)。関白近衛尚嗣(ひさつぐ)の子。生母は家女房(いえにょうぼう)(瑶林院(ようりんいん))。幼名は多治丸(たじまる)。1653年(承応2)父尚嗣が没し、6歳の庶子ながら、後水尾(ごみずのお)法皇の配慮により無事に家督を相続。以後、法皇の影響を受けながら成長し、1664年(寛文4)法皇皇女の品宮(しなのみや)(常子(つねこ)内親王)と婚姻。1677年(延宝5)左大臣に昇進するが、霊元天皇(れいげんてんのう)とはことごとく意見が合わず、1682年(天和2)右大臣一条兼輝(かねてる)に関白職を越任される。1690年(元禄3)関白就任。やがて東山天皇の信任を得て朝廷第一の実力者となり、1709年(宝永6)には、公家として江戸時代最初の太政大臣に任じられた。長女の煕子(ひろこ)は6代将軍徳川家宣の御台所。この縁で家宣や間部詮房(まなべあきふさ)らと親交を深め、1710年から2年間江戸に滞在し、閑院宮(かんいんのみや)創立にも寄与した。和歌や有職故実などへの造詣が深く、書画にも秀でた当代一流の文人でもある。1722年(享保7)6月出家。同年9月死去。法号は応円満院悠山証岳(ゆうざんしょうがく)。

[久保貴子]

『久保貴子著『近世の朝廷運営』(1998・岩田書院)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

367日誕生日大事典

近衛基煕 (このえもとひろ)
生年月日:1648年3月6日
江戸時代前期;中期の公家
1722年

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
(C) Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

近衛基煕」の用語解説はコトバンクが提供しています。

近衛基煕の関連情報

関連キーワード

ル・ナン[兄弟]三十年戦争フロンドの乱クリスチャンルナン八十年戦争シケイラ・デ・ソウザヤヴォルとシフィドニツァの平和教会群ウィルキンズクリスティアン[4世]

他サービスで検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.

アット・ニフティトップページへ アット・ニフティ会員に登録

ウェブサイトの利用について | 個人情報保護ポリシー
©NIFTY Corporation