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近衛家【このえけ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

近衛家
このえけ
藤原氏嫡流五摂家の一つとして代々摂政関白に任じられることが多かった。平安時代末期の関白藤原忠通の子基実に始り,その子基通以来近衛氏を称した。基通は鎌倉時代初期に,親幕府派貴族の九条実 (基実の) と対抗した。後世には書画詩歌茶道などにすぐれた人物を出した。信尹 (のぶただ) ,信尋 (のぶひろ) ,家煕 (いえひろ) などは特に著名である。明治維新後,篤麿は華族令によって公爵を授けられ,貴族院議長,東亜同文会会長となり,活発な政治活動を行なった。篤麿の子文麿 (ふみまろ) は,貴族院議長を経て,1937年以来3度首相となった。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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朝日新聞掲載「キーワード」

近衛家
摂政・関白の地位を独占した最高位の貴族・公家摂関家といい、その筆頭が近衛家。 <島津御一門家> 島津家分家のうち、加治木垂水重富、今和泉の四家。徳川家の御三家に当たる。
(2018-07-29 朝日新聞 朝刊 鹿児島全県・1地方)

出典:朝日新聞掲載「キーワード」

世界大百科事典 第2版

このえけ【近衛家】
藤原氏北家の嫡流,五摂家の一つ。家号は始祖基実の殿第に由来するが,また近衛大路に面する宮門号にちなんで陽明ともいう。平安時代初期,藤原良房人臣で初めて摂政となって以来,摂政・関白は藤原氏北家の嫡流に伝えられ,ついでその曾孫師輔の九条流に,さらに師輔の孫道長の御堂流に定着し,藤原氏長者も摂関の兼摂するところとなった。こうして平安時代末期の1158年(保元3)には,道長の6世の孫基実が父忠通の譲りにより16歳の若さで関白,氏長者となり,ついで摂政に任ぜられたが,基実が24歳で急死したため,弟の基房が摂政となり,さらに関白に任ぜられた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

近衛家
このえけ
藤原北家(ほっけ)の嫡流。平安末期の法性寺関白藤原忠通(ただみち)の長子基実(もとざね)を始祖とする。近衛の称はその邸が近衛通りに面していたことにちなみ、基実の子基通(もとみち)のときより近衛氏を称する。家実(いえざね)を経て兼経(かねつね)のとき弟の兼平(かねひら)が鷹司(たかつかさ)氏を興し、ここに近衛家は2流に分かれ、九条・二条・一条の3氏と並んで五摂家と称され、その筆頭に位置した。一名「陽明」とも称されるが、これは禁裏(きんり)の陽明門を東西に通じているのが近衛通りであることにちなむ。17代信尹(のぶただ)には継嗣(けいし)なく、信尹の妹前子(さきこ)の所生になる後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の第4皇子信尋(のぶひろ)が入って18代となった。江戸時代の家領は2862石余。1884年(明治17)華族に列し、公爵を授けられた。[橋本政宣]

近衛家領

平安時代末、摂関家領をほぼ惣領(そうりょう)した藤原忠通は、その大部分を長子基実に、一部を女子聖子(せいし)(皇嘉門院(こうかもんいん))に譲り、基実が伝領した所領はその没後は妻白河北政所(きたのまんどころ)(平清盛(たいらのきよもり)女)が管領し、のち長子基通に伝わり、近衛家領が成立する。その概要は、1253年(建長5)10月作成の『近衛家所領目録』にみえ、大番領・散所などを除いて、153か所の所領を載せる。その内訳は、(1)私的な別相伝地14、(2)本所として一定の得分を収取する所領50、(3)進止(しんし)権を保留して有縁の寺社に寄進した所領5、(4)基本的な年貢収取権を寺社に寄進した所領4、(5)本所として荘務を進退する所領60、(6)在地領主を請所(うけしょ)として一定の得分権をもつ所領20からなる。なお(1)のうち7か所は鷹司家が近衛家から分立するに伴い、鷹司家領となっていく。その後、南北朝期に入り皇統の分裂は公家(くげ)の諸家にも大きく影響し、近衛家は家基(いえもと)後に家平(いえひら)流、経平(つねひら)流の2流が家門と家領の管領をめぐって対抗したが、家領総体の主要部分は経平流の基嗣(もとつぐ)へと伝領されたようである。基嗣は1336年(延元1・建武3)11月に北朝から摂津国榎並庄(えなみのしょう)以下25か所の所領の安堵(あんど)を受けている。ただしこれが当時の近衛家領のすべてであったともいいがたく、1478年(文明10)から1505年(永正2)にわたる『近衛家雑事要録』によれば、荘園(しょうえん)解体期においても、近衛家領は40か所に前後する当知行(とうちぎょう)所領を維持していたが、時期を逐(お)うにしたがいその衰退は覆うべくもなく、1524年(大永4)には不知行が当知行を数倍も上回る状況と化した。16世紀の後半、石高(こくだか)知行制が成立するや、近衛家も織田・豊臣(とよとみ)2氏から知行地を与えられ、江戸時代に入り1601年(慶長6)徳川氏より1795石余の知行を与えられた。その後2862石余に達し五摂家中最高の石高を保持した。[橋本政宣]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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旺文社日本史事典 三訂版

近衛家
このえけ
藤原北家の嫡流で,五摂家の筆頭
源頼朝は摂関家の勢力をそぐため,藤原忠通の3男兼実を摂政として九条家を始め,長男基実の系統を近衛家と呼んで摂関家を二分した。鎌倉中期,さらに近衛家から鷹司 (たかつかさ) 家が分立。戦国時代には信尹 (のぶただ) を出す。明治時代に至り公爵に列せられた。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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