●遣隋使【けんずいし】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
遣隋使
けんずいし
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デジタル大辞泉
けんずい‐し【遣×隋使】
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世界大百科事典 第2版
けんずいし【遣隋使】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
遣隋使
けんずいし
7世紀初頭、聖徳太子(しょうとくたいし)が摂政(せっしょう)のとき、日本から隋(581~618)に派遣された公式の使節。600年に始まり614年まで前後6回に及ぶ。ただし、600年(推古天皇8、隋の開皇20)と610年(推古天皇18、隋の大業6)の2回の使節派遣などは『日本書紀』にその記載がなく、それぞれ『隋書(ずいしょ)』東夷伝(とういでん)・煬帝紀(ようだいき)に記されており、遣使の史実性に疑義がもたれている例が多く、ほかに3回説、4回説、5回説がある。また、600年の遣使は「姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)」が使者を派遣したとあり、この人物をだれに比定するかについて従来より諸説がある。すなわち推古天皇(すいこてんのう)と舒明天皇(じょめいてんのう)(息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと))とを混同したとする説、小野妹子(おののいもこ)が孝昭天皇(こうしょうてんのう)の皇子天帯彦国押人命(あめのたらしひこくにおしひとのみこと)を出自とするということからそれと推古天皇との混同説、あるいは聖徳太子とする説などがある。しかし「タリシヒコ」は当時の天皇一般を表す語で、太子の事績などからやはり聖徳太子と解するのが妥当であろう。
607年(推古天皇15、隋の大業3)の遣使には大礼(だいらい)小野妹子らが派遣され、このときは仏法を習得することを目的として沙門(しゃもん)数十人も同行したが、提出した天皇の国書に「日出ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)無きや云々」と、隋と対等の礼で書かれてあったために「蛮夷(ばんい)の書、無礼なる者有り、復(ま)たもって聞する勿(なか)れ」と煬帝を怒らせたという。翌608年、妹子は隋使文林郎裴世清(ぶんりんろうはいせいせい)とともに帰国、同年再度使節として渡隋。このとき、高向玄理(たかむこのくろまろ)、僧旻(そうみん)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)らが留学生(りゅうがくしょう)、学問僧として同行した。彼らは二十数年間にわたり隋唐の制度・文物についての新知識の習得に努め、帰国後、日本の文化の発達や政治改革等に貢献した。
遣隋使は614年の犬上御田鍬(耜)(いぬがみのみたすき)らの派遣を最後とするが、この事業は遣唐使に継承されていくことになる。
[鈴木靖民]
『坂元義種著『遣隋使の基礎的考察』(『日本古代の国家と宗教 下』所収・1980・吉川弘文館)』
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精選版 日本国語大辞典
けんずい‐し【遣隋使】
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旺文社世界史事典 三訂版
遣隋使
けんずいし
聖徳太子が行い,目的は中国文物の輸入,政治・文化の刷新にある。607年,小野妹子の派遣のときの国書は「日出処天子 致書日没天子 無恙(日出 (いづ) る処の天子,書を日没する処の天子に致す,恙 (つつが) なきや)」の語に始まる。614年には犬上御田鍬 (いぬがみのみたすき) が派遣された。同行の留学生・留学僧は,帰国後,大化の改新の推進力となった。
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旺文社日本史事典 三訂版
遣隋使
けんずいし
聖徳太子が中国の文物・制度を摂取する目的で派遣。第1次の600年は『隋書』のみにみえる。第2次の607年は小野妹子が大使となり,翌年隋使斐世清 (はいせいせい) と帰国。さらに同年妹子が再度派遣され,高向玄理 (たかむこのげんり) ・僧旻 (みん) ・南淵請安 (みなぶちのしようあん) らの留学生・学問僧が同行。帰国後,文化の発展や大化の改新に多大の貢献をなした。614年には犬上御田鍬 (いぬがみのみたすき) を第4次遣隋使として派遣した。
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