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郡上藩【ぐじょうはん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

郡上藩
ぐじょうはん
八幡藩ともいう。江戸時代,美濃国 (岐阜県) 郡上郡におかれた藩。慶長5 (1600) 年稲葉貞通4万石が豊後 (大分県) 臼杵へ転出したあと遠藤慶隆2万 7000石が同国小原より転入。元禄5 (92) 年遠藤氏が常陸 (茨城県) 国内へ転出ののち,井上正任が常陸笠間より5万石で転入。同 10年井上氏は丹波 (京都府) 亀山へ転出し,金森頼とき (よりとき) 3万 8000石が出羽 (山形県) 上山より転入。金森氏は宝暦8 (1758) 年に除封され,代って青山幸道4万 8000石が丹後 (京都府) 宮津より転入し,廃藩置県にいたる。譜代,江戸城雁間詰。

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デジタル大辞泉プラス

郡上藩
美濃国、八幡(現:岐阜県郡上市)を本拠地とし、主に郡上地方を領有した藩。関ヶ原の戦いの際、徳川方についた遠藤慶隆が旧領を安堵され成立。歴代藩主はほかに井上氏、青山氏など。

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藩名・旧国名がわかる事典

ぐじょうはん【郡上藩】
江戸時代美濃(みの)国郡上郡八幡(はちまん)(現、岐阜県 郡上市八幡町)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩(一時外様(とざま)藩)。藩校は潜竜館。1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いで徳川方に与した遠藤慶隆(よしたか)が旧領2万7000石を安堵(あんど)され立藩した。遠藤氏は5代在封し、その3代常友(つねとも)のとき2人の弟への分与があり2万4000石となったが、城の大改修により、城主格から正式な城主として遇されることとなった。92年(元禄5)に5万石で井上正任(まさとう)が入封(にゅうほう)、井上氏2代を経て、97年に外様の金森頼旹(よりとき)が3万8000石で入った。その2代頼錦(よりかね)のとき、1754年(宝暦4)から4年にわたって増税に抗議する百姓一揆(郡上一揆)が起き、また預り地石徹白(いとしろ)村での神社の指導権をめぐる騒動もあり、頼錦は改易(かいえき)された。代わって58年に4万8000石で青山幸道(よしみち)が丹後(たんご)国宮津藩から入り、以後明治維新まで青山氏7代が続いた。幕末の戊辰(ぼしん)戦争で藩主は新政府に与したが、家老が幕府側にまわるなど、藩は混乱した。1871年(明治4)の廃藩置県により、郡上県を経て岐阜県に編入された。◇八幡藩ともいう。

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

ぐじょうはん【郡上藩】
美濃国郡上郡八幡に藩庁を置いた譜代中小藩。同郡と隣国越前の大野郡に所領をもつ。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦で徳川方にくみした遠藤慶隆が故領2万7000石を安堵されたのがはじまり。3代常友の代に八幡町の整備拡充が進み,また幕府から,以前の城主格から城主として遇せられるようになった。4代常春治政下の77年(延宝5)に,年貢諸役軽減などをもとめる農民一揆が起こり,それに家中の分裂・抗争がからんで藩体制は動揺し,5代常久の代になっても藩政の混乱は続いた。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

郡上藩
ぐじょうはん
江戸時代、美濃(みの)国(岐阜県)郡上地方を主に領有した藩。初め遠藤慶隆(よしたか)が関ヶ原の戦い後2万7000石を得て立藩、八幡(はちまん)の城を修築した。5代常久の早逝で転封となり、その後井上氏を経て、1697年(元禄10)金森頼(よりとき)が入部。郡上郡内のほか越前(えちぜん)国(福井県)大野郡の内をあわせて3万9000石を領した。1758年(宝暦8)2代頼錦(よりかね)の代に、増税策の強行などが原因で起きた宝暦(ほうれき)郡上騒動と、預り地石徹白(いとしろ)村の社人騒動とによって、頼錦は改易された。のち青山氏が丹後(たんご)国(京都府)宮津から転封、やはり越前の采地(さいち)を含めて4万8000石を領し明治維新に至った。初代幸道(よしみち)は郡上騒動のあとを受け「在々法令之条目」を定めて青山藩制の確立を図った。6代幸哉(ゆきしげ)は行き詰まった藩財政打開に腐心し、生糸専売政策を断行、御趣法(ごしゅほう)騒動を引き起こしている。7代幸宜(ゆきのぶ)のとき、維新の進退に藩論が決せず、朝廷へ帰順の誓紙を出す一方、江戸藩邸では家老朝比奈(あさひな)藤兵衛の子茂吉を隊長とする凌霜(りょうそう)隊員44名が脱藩、幕軍とともに会津若松城に立てこもって敗れた。[村瀬円良]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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