●郡国制【ぐんこくせい】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
郡国制
ぐんこくせい
Jun-guo-zhi; Chün-kou-chih
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デジタル大辞泉
ぐんこく‐せい【郡国制】
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世界大百科事典 第2版
ぐんこくせい【郡国制】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
郡国制
ぐんこくせい
中国、漢代の行政制度。中国では春秋戦国時代に、一族、功臣に土地、人民を賜与して間接統治を行う封建制にかわって、官僚を通して中央集権的に直接統治する郡県制が出現した。秦(しん)の始皇帝は郡県制という新しい統治形態を採用して全国を統一したが、すぐに崩壊してしまった。短命の秦に続いて王朝を建てたばかりの漢帝国にとって、広大な領域を中央集権的に治めることは不可能であった。前漢初めに皇帝の直轄地とされたのはわずかに15郡であり、残りの35郡は功臣や同族を諸侯王に封建し、その自治に任された。諸侯王に与えられた封地は郡とはよばれず、国といった。こうした郡県制と封建制の二重統治体制を郡国制とよぶ。しかし、当初は賦税、徭役(ようえき)徴収権、官吏任命権(諸侯国の丞相(じょうしょう)は中央の任命)、発兵権などを掌握し、中央と同じ官僚機構や独自の年号をもっていた諸侯国も、景帝期の呉楚(ごそ)七国の乱(前154)が鎮圧されて以降、中央権力に抑えられ、諸侯国は残されても実質は郡県制に移行していった。
[鶴間和幸]
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精選版 日本国語大辞典
ぐんこく‐せい【郡国制】
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旺文社世界史事典 三訂版
郡国制
ぐんこくせい
漢王朝を開設した高祖劉邦 (りゆうほう) は,秦の急進的中央集権化の失敗に鑑み,漸進的中央集権政策として,全国を中央直轄地(郡・県)と,漢王朝成立に功績のあった一族や功臣を王・侯に封じた国とに分けて統治した。功臣の王侯は高祖の在世中にほとんど廃され,一族の王侯も景帝のときの呉楚七国の乱ののち権限を削られ,第7代武帝にいたって事実上の郡県制が確立された。
出典:旺文社世界史事典 三訂版
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