●里内裏【さとだいり】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
里内裏
さとだいり
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デジタル大辞泉
さと‐だいり【里内裏】
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世界大百科事典 第2版
さとだいり【里内裏】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
里内裏
さとだいり
大内裏の外(里)に設けられた仮の内裏。今内裏ともいう。多く摂政(せっしょう)・関白などの私邸があてられた。976年(貞元1)内裏が焼失し、再建までの間、円融(えんゆう)天皇が関白藤原兼通(かねみち)の堀河殿(ほりかわどの)を居所としたことに始まるとされる。その後、放火などにより内裏がたびたび炎上するようになると、一条(いちじょう)天皇の一条殿や、三条(さんじょう)天皇の枇杷(びわ)殿などのように、ほぼ特定の邸宅が里内裏になった。寝殿(しんでん)、対屋(たいのや)、廊などを、内裏の殿舎になぞらえて使用し、修理や再建のときは、より内裏にふさわしいように改造されることもあった。
平安中期以後は、初めから里内裏にする予定で邸宅を造営し、天皇は日常をそこで過ごし、儀式を行うときのみ内裏に帰る、という状況が多くなる。当時の代表的な里内裏には、高陽院(かやのいん)、堀河殿、東三条殿、大炊御門殿(おおいのみかどどの)、土御門殿(つちみかどどの)などがある。本来の内裏は1227年(安貞1)に焼失してからは再建されることなく、富小路殿(とみのこうじどの)、閑院殿(かんいんどの)などが里内裏とされたが、鎌倉後期になって、大覚寺統と持明院統の対立が里内裏の選定に大きな影響を与えるようになった。
その結果、建武(けんむ)の新政が挫折(ざせつ)したのち、足利尊氏(あしかがたかうじ)に擁立された光明(こうみょう)天皇は、大覚寺統の後醍醐(ごだいご)天皇に対抗する意味もあって、以前同じ持明院統の光厳(こうごん)天皇が位につくときに使用された土御門東洞院殿を内裏とした。以後はここが内裏として定まり、紫宸殿(ししんでん)ほかの殿舎も設けられ、火災と再建を繰り返しながら、1869年(明治2)の東京遷都まで続いた。これが現在の京都御所である。
[吉田早苗]
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精選版 日本国語大辞典
さと‐だいり【里内裏】
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旺文社日本史事典 三訂版
里内裏
さとだいり
今内裏ともいう。976年に内裏焼失のとき円融天皇が太政大臣藤原兼通の堀河第を約1年間皇居としたのに始まる。外戚の私第が多く用いられた。白河天皇以後は里内裏が常の皇居となった。1855年京都御所が造営され,明治維新まで皇居となった。
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