●野中兼山【のなか けんざん】
美術人名辞典
野中兼山
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デジタル大辞泉
のなか‐けんざん【野中兼山】
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus
野中兼山 のなか-けんざん
元和(げんな)元年生まれ。土佐高知藩士。谷時中(じちゅう)に南学をまなび,寛永8年奉行職となる。用水路の建設と新田開発,長宗我部(ちょうそかべ)氏の遺臣の郷士取り立て,藩境紛争の処理などの藩政を推進したが,領民,重臣の反感をまねき,寛文3年失脚した。寛文3年12月15日死去。49歳。播磨(はりま)(兵庫県)出身。名は止(し)。字(あざな)は良継。通称は伝右衛門,主計(かずえ)。別号に明夷軒。
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世界大百科事典 第2版
のなかけんざん【野中兼山】
江戸前期,土佐藩の家老。名は良継,通称伝右衛門,一時主計,伯耆と称する。兼山は号で,最晩年は明夷軒という。父野中良明の母は,藩主山内一豊の妹慈仙院。1631年(寛永8)から32年間奉行職を務め,藩政の確立に努めた。朱子学を導入し山崎闇斎を育成し,儒学思想(南学)による封建教化を図った。一方,物部(ものべ)川,仁淀川等の治水灌漑工事により大規模な新田開発を行い,47‐78年(正保4‐延宝6)の間に7万石の新田が作出された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
野中兼山
のなかけんざん
[没]寛文3(1663).12.15. 土佐
江戸時代前期の南学派の儒学者,土佐藩の家老。名は止,良継。幼名は佐八郎。通称は伝右衛門。父は野中良明,野中直継の養子となった。谷時中に朱子学を学び,南学の流れを伝えた。家老として土佐藩2代藩主山内忠義に仕え,朱子学を実用に資し,新田を開発し,藩内の産業を奨励し,津呂港の改修,用水路の建設などの土木工事を行い,郷士制度の設立に努めた。その急進性のために同僚の中傷と庶民の反対にあい,致仕,まもなく急死した。著書『室戸港記』 (1661成立) ,『兼山遺草』。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
野中兼山
のなかけんざん
(1615―1664)
江戸初期の土佐藩の政治家。名は良継(よしつぐ)。伝右衛門、主計(かずえ)、伯耆(ほうき)と称し、号が兼山、明夷軒。慶長(けいちょう)20年6月播磨(はりま)国(兵庫県)姫路に生まれる。父は野中良明(よしあき)、母は秋田万(まん)、祖母は山内一豊(やまうちかずとよ)の妹合(ごう)姫(慈仙(じせん)院)。父良明は1608年(慶長13)国を出て浪人中1618年に死去。兼山は母とともに土佐に帰り、分家の家老野中直継(なおつぐ)の養子となり、直継の娘市(いち)を妻とす。直継は1622年(元和8)奉行(ぶぎょう)職となったが、直継の死後1631年(寛永8)奉行職を命ぜられ強力な藩政を展開した。南学(なんがく)発展のため谷時中(たにじちゅう)を迎え、江戸から朱子学を導入して、山崎闇斎(やまざきあんさい)、小倉三省(おぐらさんせい)とともに研鑽(けんさん)して海南朱子学(南学)を身につけ、実学として政治に取り入れ、封建道徳の実践に努めた。また『朱子語類』『小学』の訳、『室戸港記』『自省録』『兼山遺草』などの著作をなした。火葬を禁じて土葬とし、同姓娶(めと)らずの考えから市は名のみの妻であった。兼山政治最大の功績は用水路を建設して新田を開発したことだが、物部(ものべ)川の山田堰(ぜき)、仁淀(によど)川の八田(はた)堰・鎌田(かまた)堰をはじめ多くの井溝をつくって、香長(かちょう)、吾南(ごなん)、高岡その他の平野を潤した。新田開発には長宗我部(ちょうそがべ)氏遺臣の一領具足(いちりょうぐそく)の子孫を起用して郷士とし、不満を和らげ軍事力強化の一翼を担わせた。そのほか殖産興業、港湾修築に手腕を発揮したが、一面「本山掟(もとやまおきて)」「弘瀬浦(ひろせうら)掟」「国中(くにじゅう)掟」などを発布して領民支配を強化した。また宇和島(うわじま)藩と沖島(おきのしま)(宿毛(すくも)市)・篠山(ささやま)で境界論争を展開したが、争論や開発のため資金を紙、茶、漆などの専売に依存した。領民の夫役(ぶやく)過重と相まって、民衆の間から非難が起こり、孕石頼母(はらみいしたのも)(1628―1701)、深尾出羽(ふかおでわ)ら政敵の弾劾を受け1663年(寛文3)奉行職を罷免され、その新政策はほとんど廃された(寛文(かんぶん)の改替(かいたい))。同年12月15日、領地の香美(かみ)郡山田村の中野(土佐山田町)で急死した。野中家は改易となり遺族は幡多(はた)郡宿毛(すくも)幽閉となる。兼山の墓は潮江(うしおえ)山(高知市)にあるが、娘婉(えん)(1660―1726)の建てたもの。のち五台山に兼山神社が建立される。
[山本 大 2016年6月20日]
『横川末吉著『野中兼山』(1962/新装版・1990・吉川弘文館)』▽『平尾道雄著『野中兼山と其の時代』(1970・高知県文教協会)』
出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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367日誕生日大事典
野中兼山 (のなかけんざん)
江戸時代前期の土佐藩士;政治家;儒者
1664年没
出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
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精選版 日本国語大辞典
のなか‐けんざん【野中兼山】
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旺文社日本史事典 三訂版
野中兼山
のなかけんざん
江戸前期の儒学者・政治家
海南学派の谷時中に学んだ。土佐(高知県)藩家老野中直継の養子となり,のち家老として27年間在任。新田開発,河川港湾の整備,茶・紙・漆の専売など殖産興業政策を行った。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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