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金玉均【きん ぎょくきん】

美術人名辞典

金玉均
朝鮮の政治家。安東生。炳台の子。字は伯韞、号に古愚・古筠又等。開化堂の領袖として朴泳孝らと親清派の閔氏政権打倒を計画して甲申政変を起こし、新政府の戸曹参判となったが解して日本に亡命した。のち後藤象二郎・福沢諭吉らの後援再挙を図った。高宗30年(明治26・1893)歿、43才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

きん‐ぎょくきん【金玉均】
[1851~1894]朝鮮李朝末期の政治家。開化派独立党)の指導者。公州(忠清南道)の人。朝鮮改革と清国の影響力の排除をめざし、1884年甲申(こうしん)事変を起こしたが、失敗して日本に亡命。上海(シャンハイ)で暗殺された。キム=オッキュン。

出典:小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

金玉均 キム-オッキュン
1851-1894 朝鮮王朝の政治家。
哲宗2年1月23日生まれ。科挙及第して官吏となる。朝鮮の完全独立と国政改革をとなえ,開化派を結成。1884年閔妃(ミンビ)一族を打倒するクーデターをおこすが失敗し(甲申政変),日本に亡命,福沢諭吉らの保護をうける。高宗31年2月22日(1894年3月28日)上海で暗殺された。44歳。忠清道出身。号は古愚,古筠。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

金玉均 きん-ぎょくきん

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世界大百科事典 第2版

きんぎょくきん【金玉均 Kim Ok‐kyun】
1851‐94
朝鮮,開化派の中心人物。字は伯温,号は古筠または古愚。安東の人。1872年に科挙の文科に及第,朴珪寿呉慶錫,劉大致の影響をうけて開化思想に共鳴,朴泳孝,洪英植徐光範らを盟友とし,日本の明治維新を朝鮮近代化のモデルとする改革運動に奔走した。81‐84年に日本に三たび往来しながら,福沢諭吉の協力をえて《漢城旬報》の創刊と,徐載弼ら50余名の日本留学生派遣に努力したが,国政改革のための外債募集には失敗した。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

キムオクキュン【金玉均】
1851~1894 朝鮮王朝末期の政治家。朝鮮の改革をめざして、1884年クーデター(甲申政変こうしんせいへん)を起こしたが失敗して日本に亡命。94年、上海で暗殺された。きんぎょくきん。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

きんぎょくきん【金玉均】

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

金玉均
きんぎょくきん
Kim Okkyun
[生]哲宗2(1851).2.23.
[没]高宗31(1894).3.28. 上海
朝鮮,朝鮮王朝 (李朝) 末期の開明的政治家で,開化派 (独立党) の指導者。忠清南道公州邑の出身。号は古 筠。朝鮮近代化のために努力。幼少より英才をうたわれ,高宗9 (1872) 年の科挙試験に首席で合格。官界に入るや「開化派」の政客として活躍,政治改革に尽力した。日本の民権派や政府とも合作しつつ,同 21年 12月4日甲申政変 (→京城事変 ) を断行したが,清の干渉で失敗,日本に亡命して 10年間本国政府の刺客を避け放浪した。のちスパイに誘いだされて上海に渡ったが,同 31年この地で朝鮮「守旧派」の刺客洪鍾宇により暗殺された。「大逆無道玉均」としてそのは朝鮮に送られ,さらし首になったが,甲午の改革で開化派内閣が組織されて,反逆罪が解かれ,隆煕4 (1910) 年奎章閣の大提学に追贈。著書は『箕和近事』 (1874) ,『甲申日録』 (84) ,『治道略論』 (84) など。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

金玉均
きんぎょくきん / キムオクキュン
(1851―1894)
朝鮮、李朝(りちょう)末期の政治家、開化派の指導者。忠清南道(ちゅうせいなんどう/チュンチョンナムド)公州(こうしゅう/コンジュ)出身。号は古(こいん)。金炳基(へいき)の養子となり、1872年文科に及第。成均館典籍、弘文館(こうぶんかん)校理、承政院副承旨、刑曹(けいそう)参議を歴任。実学思想の影響を受け、朝鮮の近代的革新を志した。81年来日し、制度文物を視察、82年壬午(じんご)軍乱後に修信使の一行に加わってふたたび来日。帰国後、日清(にっしん)両国の圧迫下にある朝鮮の政治革新を図り、84年12月閔妃(びんひ/ミンピ)一族から政権を奪取するクーデター(甲申政変)を敢行、新政府を組織、戸曹(こそう)参判となった。しかし、清軍の反撃と金玉均らを支持した日本軍の敗退により、3日間で政変に失敗、朴泳孝(ぼくえいこう/パクヨンヒョ)らと日本に亡命した。亡命後は事態の紛糾をおそれた日本政府の冷遇にあい、小笠原(おがさわら)、北海道、東京を転々とし、一方、朝鮮政府は彼を犯罪者として引き渡し要求をしたり暗殺を企てたりした。94年刺客に誘い出されて上海(シャンハイ)に行き、3月28日上海の旅館で洪鍾宇(こうしょうう)の凶弾に倒れた。遺体は朝鮮に送還され、「大逆無道」の罪人として死体を引き裂く極刑に処された。同年、日清戦争勃発(ぼっぱつ)後、金弘集(きんこうしゅう)内閣によって名誉を回復された。[中塚 明]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

きん‐ぎょくきん【金玉均】
朝鮮李朝末期の政治家。日本の援助を受けてクーデターを起こした(甲申の変)が失敗、日本に亡命。のち、上海で暗殺された。(一八五一‐九四

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