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金銅仏【こんどうぶつ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

金銅仏
こんどうぶつ
銅製の仏像彫刻鍍金を施したもの。飛鳥・奈良時代の造像は金仏が主流を占め,東大寺大仏のような巨像法隆寺金堂の『釈迦三尊像』や『四十八体仏』のような小像も制作された。平安時代には木彫が主となり,鎌倉時代には再び金銅仏が盛行した。鋳造法は時代により変化し,平安時代までは大陸から輸入のろう型法 (→脱ろう鋳造法 ) によるものが多く,鎌倉時代以降は木型や粘土原型を使った金銅仏が多い。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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世界大百科事典 第2版

こんどうぶつ【金銅仏】
鋳銅の仏像の表面に鍍金(ときん)をして金色に仕上げたもの。《法華経》方便品や《大乗造像功徳経》などの経典には,造像素材の金属として,金,銀,銅,鍮石(ちゆうじやく),白蠟,,鉄などがあげられており,銀仏鉄仏なども現存しているが,各種の金属製仏像の中で金銅仏が最も広く作られ,製法としては押出仏などの一部を除いてほとんどが鋳造像である。
[歴史]
 金銅仏の製作は仏像造顕の最初期から行われており,北インド,ガンダーラの遺品として,2世紀中ごろ製作のカニシカ王舎利容器の上にあらわされた金銅三尊仏がある。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

金銅仏
こんどうぶつ

銅製鋳物(いもの)に金めっき(純金を水銀で溶かして塗る鍍金(ときん))を施した仏像。仏身が黄金造りであったとの信仰から、インド、中国をはじめわが国を含む仏教世界で広く製作されたが、遺品では金色の剥落(はくらく)したものも多い。

[佐藤昭夫]

歴史

インド

古くから銅鋳物の像がつくられ、紀元前2000年ごろ栄えたモヘンジョ・ダーロ遺跡からは、多数の動物像や女性裸像が出土している。したがって、仏教の布教に伴い多くの鋳銅仏もつくられたとみられるが、そのほとんどが出土品なので鍍金の有無は明らかでない。しかし、11世紀に入って、イスラム教徒がかつての仏教の中心地マトゥラの寺院を略奪したとき多数の金銀像を得たとの記録もあり、金銅仏もかなりあったと想像される。インドにおける代表的なものに、5世紀ごろの仏立像(バーミンガム博物館)があるが、下って8~11世紀のパーラ時代のものとして、青銅や真鍮(しんちゅう)の奉献用の小像が残っている。なお青銅像はスリランカやビルマ(ミャンマー)にも多少みられるが、12世紀以降のタイに民族的な特色を加味した金銅仏が多く見受けられる。

[佐藤昭夫]

中国

古くから青銅器の伝統をもち、多くの禽獣(きんじゅう)像などがつくられていたが、仏教の伝来により仏像がつくられ、また鍍金の技術も早くから発達していたので、4世紀ごろの小像はすべて金銅仏(中国では鎏金(りゅうきん)像ともいう)であった。これらは磨崖仏(まがいぶつ)(摩崖仏)や独立した石仏と異なり、個人の念持仏としてつくられたものであろうが、5世紀なかばには13メートルにも達する金銅の釈迦(しゃか)立像がつくられた記録があり、寺院でも大金銅仏を安置する傾向のあったことがうかがわれる。5世紀後半になると、それまでの素朴なものに比し、像はもとより光背(こうはい)、台座に至るまで細緻(さいち)を極め、裏面にも浮彫り像を施すなど装飾的な傾向を強めた。そして6世紀初頭には北魏(ほくぎ)の造仏隆盛期を迎え、都市木造寺院の乱立と相まって金銅仏造像も最盛期に達し、大きな像も多数つくられた。その一頂点を示すのが正光5年(524)銘の弥勒(みろく)仏立像一具(ニューヨーク、メトロポリタン美術館)である。さらに6世紀末、隋(ずい)代に入ると、金銅仏はより精巧さを加え、工芸技法の粋を示すものとなるが、開皇13年(593)銘の青銅阿弥陀(あみだ)像一具(ボストン美術館)はその代表例といえる。唐(とう)代は仏教彫刻の黄金期とされ、石窟(せっくつ)像に比べ優美で写実的な金銅仏が数多くみられるが、銘記されたものはほとんどなく、その発展の軌跡をたどるのは困難である。11世紀も宋(そう)代に入ると、金銅仏はしだいに衰退して鉄像が多くなり、また塑像、木像に特色が発揮されるようになる。

[佐藤昭夫]

朝鮮

仏教の伝来は三国時代であり、高句麗(こうくり)と百済(くだら)には4世紀後半、新羅(しらぎ)には6世紀前半ごろとされている。いずれの国も中国六朝(りくちょう)時代の影響下にあり、この時代の傑出したものとして2体の半跏思惟菩薩(はんかしいぼさつ)像(ソウル、国立中央博物館)がある。7世紀なかばに新羅が半島を統一すると、唐風のふくよかで写実的な像が多くつくられ、慶州仏国寺の2体の如来坐像(にょらいざぞう)はその代表例である。

[佐藤昭夫]

日本

わが国では、606年(推古天皇14)に本邦初の本格的寺院飛鳥(あすか)寺が創建され、止利(とり)仏師の手になる丈六の金銅仏が安置されたのに始まる。以来7~8世紀にかけて質・量ともに全盛期を迎え、ついには高さ16メートルにも及ぶ東大寺の盧遮那仏(るしゃなぶつ)(奈良の大仏)が鋳造されるに至った。しかし9世紀に入ると木彫の波に押されてしだいに衰退し、ふたたび日の目をみるのは13世紀に入ってからである。南都焼討ちに遭遇した大仏の復興、鎌倉大仏の制作、あるいは善光寺式三尊像などが流行した鎌倉時代であるが、これもかつてのような主流を占めるに至らず、鎌倉彫刻の傍流にすぎなかった。室町時代以降は仏像彫刻全体の質的低下とともに、金銅仏にもみるべきものがない。

[佐藤昭夫]

製作法

地金は現在のブロンズ(青銅)に近く、約90%の銅と錫(すず)、微量の鉛や亜鉛などの合金が多い。鋳造法は原型の材質により、二つに大別される。一つは蝋型(ろうがた)鋳物で、まず中子(なかご)、つまりつくられるべき像の体内の中空部に相当するものを土でつくり、その上に銅の厚みだけ蜜蝋(みつろう)を盛って原型をつくる。次にその外側に土をかぶせて固めて外型とし、乾燥させてから炭火で焼いて蝋を溶かし出し、その空間に溶銅を流し込んでつくる。体内に中空部のない「むく」像の場合は全体を蝋でつくるが、蝋、銅ともに大量に必要とし、重量的にもかさむので、もっぱら小像に用いられた。また中子を用いる場合も種々くふうを凝らし、蝋を出したあと中子が一方に寄ると一定のすきまが保てないので、中子を固定するため金属片を埋め込むとか、笄(こうがい)とよぶ金属の棒状のものを外型と中子に刺し通すなどの方法がとられた。飛鳥・奈良時代の金銅仏のほとんどはこの蝋型鋳物でつくられ、仕上がりが特有のやわらかさをもって美しいが、現在では行われていない。

 いま一つの方法は、木や土で仏像の原型をつくり、これから粘土を含んだ砂で型をとって外型をつくる。さらにもう一度これに土を埋めて原型と同形のものをつくったうえで、その表面を銅厚の分だけ削り取って中子とする。中子の上に外型をかぶせ、動かぬよう工作したうえで炭火で焼きしめ、外型と中子のすきまに溶銅を流し込む方法である。

 このようにしてつくられた像の鋳損じ部分に銅を埋めたり、表面を鏨(たがね)できれいに削ったり、磨いたあと水銀鍍金(アマルガムめっき)を施して完成するが、髪、眉(まゆ)、瞳(ひとみ)、唇、衣などに彩色を施すことも多い。

[佐藤昭夫]

『奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』(1979・同朋舎)』『松原三郎著『韓国金銅仏研究 古代朝鮮金銅仏の系譜』(1985・吉川弘文館)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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