●鎮西奉行【ちんぜいぶぎょう】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
鎮西奉行
ちんぜいぶぎょう
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デジタル大辞泉
ちんぜい‐ぶぎょう〔‐ブギヤウ〕【鎮西奉行】
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世界大百科事典 第2版
ちんぜいぶぎょう【鎮西奉行】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
鎮西奉行
ちんぜいぶぎょう
鎌倉幕府が九州統轄のため設置した職。鎮西守護ともいう。1185年(文治1)源頼朝(よりとも)が天野遠景(あまのとおかげ)を九州に派遣して同地方の御家人(ごけにん)を統轄させたのが起源。その任務は初め平家の残党、源義経(よしつね)与党の追捕(ついぶ)にあったが、のちには鎮西御家人の統率が任とされた。また鎮西奉行は大宰府(だざいふ)(福岡県太宰府(だざいふ)市)を押さえ、大宰府の機能を掌握することによって九州全般にわたってその任務を遂行した。遠景は1191~96年(建久2~7)の間に鎌倉に帰り、中原親能(なかはらちかよし)、ついで武藤資頼(むとうすけより)がこれにかわった。武藤氏は大宰府現地の長官である少弐(しょうに)に就任、以後世襲して少弐氏を称するようになる。しかし、九州諸国に守護が補任(ぶにん)され、御家人統率の権限は守護の手に移るようになり(少弐氏自ら三国二島の守護であった)、鎮西奉行(守護人)としての権限は縮小された。元寇(げんこう)以後、別に幕府によって、九州の御家人の統轄機関として特殊合議機関、ついで鎮西談議所、鎮西探題(たんだい)が設置されるに及び、その機能は大幅に失われた。しかし鎮西談議所設置後も大友氏が東方奉行、少弐氏が西方奉行として元寇恩賞の奉行をしているところから、この時代なお同職が両氏の世襲として存続したことが認められる。
[五味克夫]
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精選版 日本国語大辞典
ちんぜい‐ぶぎょう ‥ブギャウ【鎮西奉行】
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旺文社日本史事典 三訂版
鎮西奉行
ちんぜいぶぎょう
源義経および平氏残党の追捕と九州御家人統率のため,1185年天野遠景 (とおかげ) が派遣され,'86年鎮西奉行と称した。大宰府を支配する。元寇後,鎮西談議所,1293年鎮西探題の設置により吸収された。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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