●長安【チョウアン】
デジタル大辞泉
ちょうあん〔チヤウアン〕【長安】
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世界大百科事典 第2版
ちょうあん【長安 Cháng ān】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
長安
ちょうあん
西周、秦(しん)、前漢、新、前趙(ぜんちょう)、前秦、後(こう)秦、西魏(せいぎ)、北周、隋(ずい)、唐の11王朝が都した中国第一の古都。現在の陝西(せんせい)省西安(せいあん)。漢、唐代にもっとも繁栄したが、唐代には東都洛陽(らくよう)に対して西都(せいと)または上都とよばれた。中国西北地方にある関中平野のほぼ中央部に位置する。
西周の都鎬京(こうけい)の遺址(いし)は、現西安市南西郊に位置する。また、秦の咸陽(かんよう)宮址は北西方の渭河(いが)北岸にあり、阿房(あぼう)宮址は西郊に現存する。前漢の長安城は、市の北西郊、渭河の南に位置し、宮殿の基壇や版築(はんちく)の城壁の一部は、現在、地上にその姿をとどめている。周囲に城壁を巡らし、12の城門をもつ城内には、長楽宮、未央宮(びおうきゅう)などの宮殿が造営され、市(いち)や居住区が設けられた。総面積36平方キロメートルに及ぶ漢長安城は、武帝の時代にほぼ完成をみた。この都城は王莽(おうもう)時代の農民反乱によって破壊されたが、その後、五胡(こ)十六国および北朝の諸王朝はいずれも漢長安城の位置に宮都を構えた。なお、前漢の帝王陵は、渭河の北に広がる渭北丘陵と、西安市南東の白鹿原(はくろくげん)上に造営された。
582年、隋の文帝は宇文愷(うぶんかい)らに勅して、漢城南東の竜首原(りゅうしゅげん)に新都を造営し、これを大興城(だいこうじょう)と名づけた。唐長安城はこの大興城を修築したもので、都城の基本的構成に大きな変化はなかった。その規模は東西9.7キロメートル、南北8.6キロメートルの横に長い方形で、北辺中央に宮城、皇城を配し、城内中央を南北に幅150メートルの大路があり、この大路を中心に大小の道路が東西・南北に走って碁盤目状の街区を構成していた。長安城外北東には太宗・高宗の大明宮が、また玄宗(げんそう)は城内に興慶宮を造営した。さらに南東隅の曲江池は遊宴の地として知られていた。城内は109の坊に分かれ、坊内には住宅のほかに仏寺、道観、イスラム寺院などが点在していた。また、東西両市には各種商店や旅宿、飲食店などが軒を連ね、各地の商人や旅人たちで大いににぎわった。当時長安は、東アジアのみならず世界各地の国々との交流の中心地であり、西域の隊商や周辺諸国の人々が頻繁に往来した。日本からも遣唐使や留学生、留学僧がしばしばこの地を訪ねた。唐都長安は玄宗時代に最盛期を迎え、人口100万人を擁する国際色豊かな文化都市となったが、その後、唐朝の衰微とともに凋落(ちょうらく)の道をたどった。
唐朝滅亡以後、長安はふたたび国都となることはなく、長く一地方都市にすぎない存在であったが、新中国の誕生によって復興し、陝西省都の西安として、政治、経済、文化の中心となっている。
[田辺昭三]
『佐藤武敏著『長安』(1974・近藤出版社)』▽『田辺昭三著『西安案内』(1979・平凡社)』▽『西嶋定生編『奈良・平安の都と長安』(1983・小学館)』
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精選版 日本国語大辞典
ちょうあん チャウアン【長安】
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旺文社世界史事典 三訂版
長安
ちょうあん
渭水盆地の中心都市で,早くから要害の地として知られ,前漢の首都となってのち,五胡十六国時代の前趙 (ぜんちよう) ・前秦 (ぜんしん) ・後秦 (こうしん) ,南北朝時代の西魏 (せいぎ) ・北周・隋・唐がここに都を置いた。特に栄えたのは前漢・唐の時代で,前漢時代は周囲が約28㎞,城の内外に9つの市があった。唐の長安は,隋の文帝楊堅が造った大興城に手を加えた東西約10㎞,南北約8㎞の大規模なもので,宮城・皇城(官庁所在地)・市・住宅地をもつ計画都市であった。最盛期は玄宗 (げんそう) のころ(8世紀前半)で,人口は100万に達し,渤海 (ぼつかい) ・新羅 (しんら) ・日本・ペルシア・アラビア・インド・トルキスタンから人が集まる国際的な文化都市であった。日本の平城京・平安京,渤海の上京はこれをまねて造られた。
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旺文社日本史事典 三訂版
長安
ちょうあん
漢・隋・唐などの首都として栄え,特に唐代には人口100万人に達した。平城京・平安京は長安を手本にしてつくられた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
長安
ちょうあん
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