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長宗我部元親【ちょうそかべもとちか】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

長宗我部元親
ちょうそかべもとちか
[生]天文8(1539).土佐
[没]慶長4(1599).5.19. 伏見
戦国時代の大名。国親の子,幼名,弥三郎。宮内少輔。永禄3 (1560) 年家督を継ぎ,本山氏をはじめ土佐の諸豪族を倒して勢力を得,国司家一条氏を追放して,天正3 (75) 年土佐を統一した。さらに阿波三好氏,讃岐香川氏,伊予河野氏などの土豪を次々と滅ぼし,同 11年四国全域を支配した。しかしその前年からたびたび織田信長に攻撃され,同 13年ついに豊臣秀吉四国征伐に屈服してその支配下に入り,土佐一国を安堵 (あんど) された。その後九州征伐小田原征伐文禄慶長朝鮮出兵に従軍して国力を疲弊させた。分国統治のための『長宗我部元親百箇条』は有名。

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デジタル大辞泉

ちょうそかべ‐もとちか〔チヤウそかべ‐〕【長宗我部元親】
[1539~1599]戦国時代武将土佐の人。国司一条氏を追って土佐さらに四国全土を支配したが、豊臣秀吉四国征伐降伏九州征伐朝鮮出兵に参加。「長宗我部元親百箇条」は分国法として有名。

出典:小学館
監修:松村明
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

長宗我部元親 ちょうそかべ-もとちか
1538-1599 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)7年生まれ。長宗我部国親の長男。永禄(えいろく)3年家督をつぐ。天正(てんしょう)13年四国を統一。同年豊臣秀吉に攻められ土佐(高知県)だけの領有をゆるされる。秀吉の九州攻め,小田原攻め,文禄(ぶんろく)・慶長の役にも出陣。領内では惣検地をおこない,「長宗我部元親百箇条」をさだめた。慶長4年5月19日死去。62歳。通称は宮内少輔,羽柴土佐侍従。

出典:講談社
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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

ちょうそがべもとちか【長宗我部元親】
1539‐99(天文8‐慶長4)
戦国・織豊期の大名。初名弥三郎。宮内少輔。国親の子。1560年(永禄3)家を継ぎ長岡郡岡豊(おこう)城を根拠とし,国内の有力国人本山,津野,安芸氏などを従えて領地を拡大,70年(元亀1)にはほぼ土佐6郡を領するに至る。ついで74年(天正2)残る幡多郡の土佐国司一条兼定を豊後に追い,兼定の子内政を擁立,これを岡豊に近い大津城に移し,娘を配した。翌年には安芸郡東部を征して土佐一国の統一をなし遂げた。この間,永禄末より元亀にわたる土佐一宮神社再建事業は土佐中央部を制圧した戦国大名としての宣言とみてよい。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

ちょうそかべもとちか【長宗我部元親】
1539~1599 戦国大名。国親の子。土佐の国司一条氏を追って四国全土を統一。1585年豊臣秀吉に降伏してのち、土佐一国を許され、九州出兵、文禄・慶長の役に従った。掟書「長宗我部元親百箇条」が知られる。

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

長宗我部元親
ちょうそがべもとちか
(1539―1599)
戦国時代の大名。国親(くにちか)の子として土佐国長岡郡岡豊(おこう)(高知県南国(なんこく)市)に生まれる。幼名弥三郎。宮内少輔(くないのしょう)、羽柴(はしば)土佐侍従、従四位下(じゅしいのげ)少将。1560年(永禄3)家督相続後土佐の豪族を従え、1574年(天正2)一条兼定(いちじょうかねさだ)を追い、翌年7月土佐を統一した。同年末ごろ阿波(あわ)(徳島県)に出兵、ついで伊予(いよ)(愛媛県)、讃岐(さぬき)(香川県)へ侵入した。1582年の織田信長との対戦は本能寺(ほんのうじ)の変で危機を免れ、8月十河存保(そごうまさやす)を中富川(なかとみがわ)に破り阿波を制圧し、ついで讃岐の十河城を陥れ、1585年の春伊予の河野通直(こうのみちなお)を降(くだ)して四国を制覇した。だが同年夏豊臣秀吉(とよとみひでよし)に敗れ、土佐一国を安堵(あんど)された。1586年冬九州に出兵し島津の軍と豊後(ぶんご)(大分県)戸次川(へつぎがわ)で戦って敗れ、長男信親(のぶちか)は戦死した。そのため以後の元親の性格は一変した。
 1587年9月より検地を始め、1588年冬居城を大高坂(おおたかさ)(高知市)に移し後嗣(こうし)を四男盛親(もりちか)と定め、反対者を処刑した。1590年小田原征伐に参加し、翌年浦戸城(うらどじょう)(高知市)に移転した。文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役に出兵し、1596年(慶長1)にはサン・フェリペ号の処理を行い、1597年3月掟書(おきてがき)(百箇条)を定め発布した。1599年3月三男親忠(ちかただ)を幽閉したのち上洛(じょうらく)したが、5月19日伏見(ふしみ)で死去。遺骨は吾川(あがわ)郡長浜村天甫寺(てんぽじ)山(高知市)に葬られた。法号は雪蹊恕三(せっけいにょさん)大禅定門。元親は政治、軍事上の活動だけでなく、仏教、儒学を重んじ和歌、連歌、茶道の心得もあった。国分寺金堂、土佐神社、豊楽寺(ぶらくじ)薬師堂は元親の修築したもので、現存の長宗我部地検帳は文化遺産として有名である。[山本 大]
『山本大著『長宗我部元親』(1960・吉川弘文館) ▽平尾道雄著『長宗我部元親』(1966・人物往来社) ▽山本大著『土佐長宗我部氏』(1974・新人物往来社)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

ちょうそかべ‐もとちか【長宗我部元親】
安土桃山時代の武将。幼名彌三郎。土佐を平定し、阿波・讚岐・伊予を攻め四国全土を制覇した。秀吉に伊・讚二国の献上を拒否して戦い、降伏。土佐の領有を許される。九州平定、文祿・慶長の役に出兵。「長宗我部元親百箇条」は、戦国大名分国法として有名。天文七~慶長四年(一五三八‐九九

出典:精選版 日本国語大辞典
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旺文社日本史事典 三訂版

長宗我部元親
ちょうそかべもとちか
1538〜99
戦国時代の武将
国親の子。1571年,国司の一条氏を追い土佐(高知県)1国を統一,さらに阿波(徳島県)・伊予(愛媛県)・讃岐(香川県)を攻略し,'83年四国全土を平定した。'85年豊臣秀吉の四国征討をうけ降伏し,土佐1国を安堵された。九州征討,文禄・慶長の役に参加。また長宗我部元親百箇条を制定した。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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